わ・な・げ・あ・そ・び

憧れるって、どういう感覚なんでしょうか。僕は、す~ぐ羨んじゃったり、悔しくなっちゃったり、嫉妬しちゃったりしてばかりで、素直に憧れたり、感心したりする力が足りないのかなぁなんて思います。


憧れるという感覚を、もちろん知らないわけじゃないと思うのです。でもなんだか、今の自分と少し遠い感覚のような気がしてなりません。す~ぐ自分と比較して、「なんだよ、僕にだってやってやれないことはないのに」とか思ってしまいがちです。あるいは、もうまるで敵わないような能力や才能を前にすると、「ふうん、そう、いいわね」と無関心を演じてしまいがちなのです。


自分が素直に憧れを感じられる対象って、今の僕にとってどんなものなのでしょうかと考えてみますと、ひとつ思うのは、自分とはまるで違ったやり方、考え方、アプローチのしかた、表現方式でもって、僕や僕を含んだ世界との関係をむすび、築こうとする姿勢をみせてくれる対象に、今の僕は素直に憧れを感じることができるように思います。この最後の部分が特に重要で、あくまで僕の方を向いてくれている、僕を含んだ世界を見てくれていてはたらきかけようとしてくれている、と、あくまで「僕が」感じられるところが大事だったりするのです。なんだか、ただわがまま言って、「僕を見てよ」とごねている子供みたいで、自分が恥ずかしく思えてきますけれど……。どうも、ある集団が、一定の人の輪が盛り上がっていても、自分との縁遠さを感じてしまう瞬間というのが日常結構多くて、そんなとき僕は、「はい、そう、ふうん、いいわね(どうぞご勝手に)」なんて、盛り上がっている輪に気づかれない程度にちょっとだけすねてみせつつ、もし「なに、お前すねてんの?」と気づかれようものなら、いつでも「いえ、すねてなんかいませんよ。関心ありません」と反論する心の準備をしているみたいな自分が、ちょっとヤです。


きっと、僕が認知する「僕」や、「僕を含んだ世界」の範囲が狭いのだろうなと思います。そこさえぐんと広がれば、『「僕」や「僕を含んだ世界」の方を向いてくれている』対象は、ぐんと増えるのですから。結局たどり着くのはいつも「自分の視野の狭さ」であるというのは、いかにも「僕あるある」でして、あ~ほとほとイヤになるな……なんてフリをしておきながら、腹の底では反省しているのかたいそうにギモンであり……という、「僕あるある」の無限ループをしています。


このループはひょっとしたら決して抜け出せないのかもしれません。だって、僕は誰ともちがう僕であり、このループを持った僕が、僕を僕たらしめているのでしょうから。抜け出せないから、せめて、輪を広げたり、ねじ曲げてイレギュラーな回転周期をつくったり、自分という軸に新たな輪を追加してやればよいのかもしれません。人生とは、そういう、輪投げ遊びなのでしょう。