「免疫さん」の黒幕

同じ種の中でも多様性があるということは、環境が変わっても、種の中で誰かしらが生き残り、種を絶やさずに保ち続けることにつながる……という論理が立ちます。個体差が大きく、豊かな個性が共存している社会のほうが、さらに大きな社会や自然環境の中で生き残っていく可能性が高い、といっていいのかもしれません。


「アレルギー」ということばが、いつからか、個人の体質における問題点を指す意味から転じて、思想や信条、価値観の多様さに対する不寛容を指して比喩的に使われることが出てきたように思います。自分とは異質なものであっても、攻撃し、排除するべきかどうかは別問題なはずです。からだに入ってきた異物が有害である場合、攻撃や排除、抵抗はしかるべき反応といっていいのでしょうけれど、悪影響を及ぼすかどうかに関わらず、はなっからその存在自体を認めないというのはどうなのでしょうね。その者の弱さに起因する不安が、そうさせるのでしょうか。あれもこれも、「いいよいいよ、いていいよ」と認めておいて、何か悪さをされてしまったときに、簡単に倒れてしまうようなことがあっては困る……だから、悪さをするかどうかは別にして、とにかくはなっから異質なものは許しません!……というふうになってしまうのでしょうか。


「なにかあっては、困るから」「なにか起きてからでは、遅いから」といった文句は、かなり現代の社会においていろいろな場所で使われるようになったように思います。クレームが決して起きないように、びくびくしながら、自分たちからどんどん自由を取り去っていっているみたいです。そうして自由を取り去っていった果てには、自分たちの生きる権利までも取り去ってしまうのではないかとさえ思います。そうやって、個性の豊かさを認めずに排除していったら、環境が変わったときに、生き残れる能力を持った者がだれもおらず、簡単に倒れてしまうでしょうから……


庭をほったらかしにしておくと、どこからともなくやってきた雑多な植物たちでたちまちいっぱいになります。季節によって、それらがそれぞれの個性の展開をみせ、勝手にやっている様子がうかがえます。もしその庭を、人間の手で、単一の種のみで満たしたらどうでしょう。それが暖かいところでしか繁茂できない種だとしたら、寒い季節は不毛な土地になってしまいます。寒いときには寒さに強い種で満たせば良いのかもしれませんが、人間の手が及ばなくなったら、途端に再び雑多な種の混在する土地になるでしょう。


異種や異質なものを分け隔て、棲み分けることは、ある意味人間的で理性的なことでもあるのかもしれません。アレルギーって、人間の中の「免疫さん」たちが、理性を持った状態……なのかもしれません。ひょっとしたら、無意識下でその「免疫さん」たちに、「異端!  攻撃、排除せよ!」と指示しているのは、私たち自身にほかならないのかもしれません。そう思うと、自分をデザインしているのは結局どこまでいっても自分自身に他ならないのかなぁ……なんて思いますけれど、やりたくてアレルギー体質をやっている人なんていないでしょうから、やっぱり違うのかなぁ……迂闊なことは言えませんね。人工的につくられた社会のシステムが、個人の体質にまで作用して、抗えない現状があるということでしょうか。