「じぶん専門家」のつぶやき 〜その比重〜

昨日、健康診断がありました。問診票に記載された僕の年齢を示す数字は、32。次にやってくる僕の誕生日までは、あとおよそ半年あります。ぼんやりと問診票上の「32」を眺めながら、その上に重ねるように幻視した「33」。その数字が、急に重く感じられました。33って、おじさんやん……


厳密にいうと、むかしの僕にとっておじさんと言えるような年齢に自分がなろうとしているというだけであって、たとえ40になろうと50になろうと60になろうと、上がいる限りは「若手」です。


そんな「若手」であり「おじさん」でもある僕には、未だなんの実績も肩書きもありません。なにかの受賞歴みたいなものもなければ、能力を示す一般的な指標になりうるような仕事歴もありません。それで「33」になろうとしていると思うと、そのことが重くのしかかるかのように感じられたのです。


もちろんこれまでやってきたことはあるし、これからもやるつもりでいることはあります。ただそれらは、今まで通り、僕が僕自身につきつけては、自己消化して循環するだけの営みであって、「生活」の一部であり、「生活」そのものであって、今後も僕の能力を示す一般的な指標になりうるようなものにはなってくれないでしょう。「33年間休まず、風呂に入り続けました」「(同)飯を食い続けました」「(同)一定時間の睡眠をとり続けました」といったって、なんの勲章にもなりませんし、肩書きにもなりません。「メシ食い専門家」も、「入浴マスター」も、「定量スリーピングキーパー」も、肩書きにならないのです。もちろん、これまで僕がやってきており、これからもやるつもりでいる営為(金銭的価値に変えるための営みという意味ではなく)が、食事や入浴や睡眠ではないことは確かなのですけれど。


いかに良く眠り、良く食べ、良く入浴するかといったことが、金銭的な価値に変える意味かどうかにとらわれず、あらゆる営為に良い影響をもたらしうるとは思っています。そういう意味では、僕は僕自身のみを対象とした、専門の「メシ食い屋さん」であり、「入浴マスター」であり、「定量スリーピングキーパー」であるのは間違いありません。彼らの仕事が、僕のあらゆる仕事や生活や生命活動の質を上げてくれるのです。


自分にとってのみ、その実績や能力を認める指標となりうるものしか、僕にはないのです……それで33って、一般的にはやばくない?……という嘆きが自分の中から聞こえてきつつも、まあまあ、俺は少なくともキミの価値を認めているよ……と声をかけてなだめる自分がいます。それを外から覗き込んでは、「重っ」とつぶやく自分がいるのです。(いや、むしろ軽いんでしょうか)




ツマラナイ嘆きを受け取っていただき、ありがとうございます。