「かわいそう」〜超越した感覚〜

どうも、「かわいそう」という形容には、上下や優劣を押し付ける目線がある気がしてなりません。対等だと思える間柄においては、なかなかつかわれない言葉なのではないでしょうか。


僕は、じぶんのことを本当に平凡なやつだと思います。「平凡なやつ」を定義すれば、必然的に「非凡な存在」というのもあらわれるでしょう。ですが、そこに優劣や上下を押し付けるようなことは、決してあってほしくないのです。できるかぎり僕は、対等な立場を心がけていますし、他者からも対等に扱われたいと願っています。軽蔑されるのはもちろん嫌ですが、持ち上げられるのもあまり気持ちが良いものではないでしょう。暗に、「アンタ、軽いから簡単に持ち上がるんだよ」とでも言われているようにさえ、思えなくもないかと……



話を戻しますが、たとえば、小柄な犬なんかがいたとして、その犬を人間が蹴飛ばしている光景や映像を目にしたとしたら、僕は「かわいそう」と思うかもしれません。また、別のたとえですが、大きな自然の力によって、なすすべもなく傷ついたり被害に遭う人がいたりしたとしたら、僕の感覚としては「かわいそう」とは違うかなぁと思います。あくまで意志によってコントロール可能な範囲における、一方的な「力の行使」……そこに、僕が「かわいそう」を感じるかどうかが関わっているのかもしれません。


でも、たとえ意志によってコントロール可能な範囲における力の行使だとしても、武力による人間同士の争いだとか、人間に対する一方的な暴力だとかは、「かわいそう」というよりは「おろか」という感じがします。力を行使する側に対して思っているのでしょう。力を受ける方に立ってみると、その理不尽さに疑問が湧き、すぐさま怒りが立ちのぼるのじゃないかなぁ……と想像します。


仮に犬に暴力を振るう人間がいたとして、その人間を「おろか」だと思うことはあるかもしれませんが、犬側の気持ちになってみたとき、理不尽さに疑問が湧き、怒りが立ちのぼるかといえば、ちょっとそれも違うような気がします。ここに、なにか「かわいそう」を取り出せる要因が潜んでいそうです。人間も犬も、その命自体は対等であってほしいし、生きる権利は平等にあってほしいと思います。けれど、両者はあくまで別の生き物です。人間の感覚にあてはめてとらえられる部分など、たかが知れているでしょう。たとえば暴力を受ける側が、「一方的な力の行使かどうか」なんてことを問題にしないような存在である場合(あるいは、その認知をする能力自体がない場合)、一種の超越した感覚みたいなものとして、「かわいそう」があらわれるのかもしれません。


そのような超越は、日常でひんぱんにお目にかかるようなものではありません。現実的な存在を定義したとき、その対極にあらわれる抽象的な感覚……ともいえそうです。食用に育てられて屠殺される家畜たちは「かわいそう」かどうか……その命自体の対等性や、生きる権利はどうなのかといったことは、また改めて考えてみたいです。