かなしいこと≠泣けること

お葬式で、泣いたことがあります。自分の祖父や祖母のお葬式でした。そのとき、僕はかなしかったから泣いたのか?  と考えてみると、そうでもないような気がします。むしろ、感動した、感極まって泣いた、としたほうが、そのときの自分の涙をうまく言いあらわしているように思えます。祖父や祖母は、よく生きた末の、いわゆる大往生といっていい最期だったからかもしれません。


不慮の事故だとか、病気だとかで、明らかに若くして亡くなってしまった友達も僕には何人かいます。かれらが亡くなってしまったことはかなしいけれど、いずれのときも、僕の目から涙が流れることはありませんでした。それは、単純に家族ほどには近しい存在ではなかったからなのかもしれません。けれど、僕は映画を観て涙を流したこともあります。家族より友達より、よっぽど他人事といえるわけですが、そうしたつくり話の中にも泣けるものがあるのです。僕の場合は、かなしいことと、涙が流れることとは、原因と結果としてはあまり結びつくものではないのかもしれません。


自分の級友たちが社会に出て、ちょうど数年経ったくらいのタイミングで、同窓会のような集まりがあったようです。僕はそのとき、出席しませんでした。単純にほかの用事があったからだと記憶しているのですが、その用事を押しのけてでも行きたいとまでは思っていなかったという事実がその裏側にあるといってもいいのかもしれません。そのときの僕は、社会に出ていっちょまえの大人になれているという自負がまったくなかったので、そんな自分をかつての級友たちのもとにわざわざ晒しに行きたいとも思えない……という気持ちがありました。今でこそ、自分がいっちょまえの大人に足りるかなんてはなはだわからないので、そうしたことを同窓会に出る・出ないの基準にしていたら、いっこうに僕は出席するという返事を書くことはできないでしょう。それでなにかまずいとも思いませんけれど……



僕に、ほんとうにつらくて苦しいといえる時期が一度だって訪れたことがあったでしょうか。現役で合格しなくて、大学受験のために浪人していたときはつらかったような気もしますけれど、生きていくのにはあれもこれも足りていたうえでのわがまま程度にしか思えなくもありません。自分のことを、おおむね何が起きても平然としている類の人間だと思っているのですが、単に平然としていられる程度のことしか経験してきていないだけなのかもしれません。ほんとうにつらいとき・苦しいときにその人のたましいが表れるのだとしたら、僕のたましいはまだ、外の空気をしらない胎児のようなものなのかもしれません。