集中 ⇄ 散漫

「きょうは調子がいいなぁ」「きょうは調子がよろしくないなぁ」


ずっと、そうやって日によって「当たり外れ」があるみたいに思っていました。ただ、それでは「外れ」のときに困るので、自分の毎日のおこないをなるべく記録して、「外れ」の原因をつくったことがらをできる限り把握し、それをしないようにしたり、逆に「当たり」に貢献したかもしれないことはなるべく積極的におこなうようにしたりと、努めていました。


それでも、どういうわけか、「当たり外れ」はやってくるのです。当然といえば当然かもしれません。ある程度の幅の往来をくりかえしながら、ぐぐっと引いて観てみると一本の線になっているというのが人の命の営みだというような気もしています。ところどころ線が太くなったり細くなったりしているのが、その往来の幅を表しているのだと。


ところで、ぼくはここまででいう「当たり外れ」、つまり「調子の良さ・悪さ」を、「思い描いた通りに自分のパフォーマンスを発揮する精度」によって判断しているようだということに、最近になってようやく気付いたのです。


ぼくは、楽器の演奏や歌唱に取り組んでいます。同じ曲を毎日毎日、練習したり録音したりを繰り返して、思い描いたベストパフォーマンスに近づけていくという作業をおこなっています。そこで、「当たり外れ」「調子の良さ・悪さ」といったものが見えてくるのです。演奏中、次の瞬間に必要な準備動作、備える態勢みたいなものをことごとく失念してしまうような日は、「きょうは調子がわるいなぁ」とばかり思っていました。しかし最近、そんなコンディションのときって、そうした「思い描いたベストパフォーマンスに近づける」ための間断のない集中状態を保てていないかわりに、あれやこれやと気が散って、いろいろな別のことを考えたり、さらにはなにかそれまで気がつかなかったことに気づいたり、なにかを思いついたり発想を得たりしている、ということがわかったのです。


もちろんそれすらもままならず、ただひたすらに「お腹が減った」「眠い」「疲れた」「体がつらい」といった生理的な不快感に支配されているときもあります。そうした生理状態も含めて「調子の良さ・悪さ」「当たり外れ」を語れば、それらは努力や自己管理によってある程度コントロールできる範囲にあるのかもしれません。


しかしそうでない範囲のコンディションとして、さきほどのような「集中⇄散漫」という軸があることがわかったのです。この軸は、健康や自己管理に気をつけてもコントロールしにくい振れ幅を持っているような気がしています。それならば、そのことは受け入れて、そのコンディションの幅を利用するしかないと思うのです。集中に向かない状態のときは、おもいっきし逸脱し、既成概念や思い込み・偏見の類をぶちこわし、計画にないものを考え、予定を変更し、自分のリード〈手綱〉を外してやればいいのです。そうすると「思い描いたベストパフォーマンスに近づける作業」はかないませんけれど、まったく違った別次元の豊かさ・調子の良さが見えてきます。


これはもちろん、「思い描いた通りのベストパフォーマンスができる集中状態かどうか」だけを「調子の良さ・悪さ」「当たり外れ」の判断基準にしていたという経緯があったからこそ、気づけたことです。ぶち壊す「思い込み」がなければ、「突破」はありません。やっぱり、「思い込みの構築」というターム〈経過〉にも意味を見出すことは出来るし、それも必要なことなんだろうなと思います。