「なんもねぇ」の高低差

よく、じぶんの住む町を評して「なんもねぇ」と言ってしまいます。そういいつつ、退屈したことはありません。「なんもねぇ」と評しがちな町は、「なにかする」にはもってこいなのでしょう。「なにかしている」うちは、決して退屈することはありません。


なにをもって「なんもねぇ」などといってしまうのでしょう。目立った構造物の有無でしょうか。人工的なものでなくても、目立った自然でもあれば「なにかある」うちに入るのでしょうか。じぶんの町に、富士山のまわりにあるような樹海でもあったらどうでしょう。ものすごく「なにかある」うちに入るような気もするし、かえって「激・なんもねぇ」という感じがしなくもありません。


人の集まるイベントが開催されていると、「お、なにかやってるな」などと思いがちです。ぼくの住む町では、その地域の人たちが立ち上がって開催されるちいさなお祭りごとが目立ちます。それぞれは年に1、2度とかそんなペースですが、それら大中小のいろいろが日々あちこちで立ち上がり、なんだかんだ週末にもなると「どこかでなにかしらやっている」ような状態が、ここのところの常である……といってもいいかもしれません。


そう思うと、じぶんの住む町を「なんもねぇ」だなんて、軽はずみには言えない気がしてきました。かなり、「なにかある」部類のうちに入る町なんじゃないかとさえ思えてきました。もともとは、「なにもなかった」のかもしれません。だから、人々が住み始めたのかもしれません。


ぼくの住む町は、低湿地を中心にした、わりに平坦な土地のうえおこった町なのだといえそうです。それでも、場所によって標高差は±10メートルくらいはあるようです。「なんもねぇ」なんて思いがちな町の平面地図を眺めつつ、「ここに表現されていない『高さ低さ』があるんだよなぁ」と想像し始めたことがきっかけで、いまぼくは急にこんな話を持ち出しています。


「なんもねぇ」の裏には、かならず「なにかある」のでしょう。それを漁っているうちは、退屈することはなさそうです。