出鱈目な湯気

何度も通ってしまう店があります。飲食店なのですが、いつ行っても、うまいのです。食べるたびに、「今日もまたうまいなぁ」と驚き、感心してしまうのです。まったく同じメニューを繰り返し頼んでもそういったことが起きるので、ひょっとしたら僕は一度食べた味を忘れてしまい、その都度味わって感動しているんじゃないかと不安になります。


同じメニューを繰り返し頼んでも感動するわけは、どこにあるのでしょうか。そのひとつは、「湯気」にあるような気がしています。たった今まで人の手が加えられていた、できたばっかりの「アツさ」です。「新鮮さ」とも違っていて、作り手の加えた熱量の減衰が極力ない状態が「うまさ」なんじゃないかと思っています。この「減衰」がまださほど進んでないぞ~、食べるなら今だぞ~!  と示してくれているアイコンこそが、ここでいう「湯気」なのです。


「湯気」には、つくった人のそのときのバイオリズムが宿るのかもしれません。そして、それを受け取る僕のほうにもそのときのバイオリズムがあります。このバイオリズムの邂逅には、おなじものがふたつとありません。いくら以前に注文したときと同じ材料と手順によってつくられた「同じメニュー」を冠する一品だろうと、あのときの湯気とこのときの湯気はちがいますし、僕における湯気の受け取り方、認知のされ方、認知される内容も違うのじゃないかと思うのです。


めっきり非科学的で非論理的で破綻しまくりの暴走駄文になってしまっているかもしれませんけれど、僕は「湯気」に出会えば、それで幸せなのです。だから僕は繰り返し、同じ店に行きます。行けば、「湯気」に出会える気がするからです。同じ店といっても、そのときそのときのバイオリズムの集合体が店ですし、僕の方にだって同じことがいえて、そのときそのときのバイオリズムの集合体が僕という一個の存在なのだととらえてもいいわけです。


と、どんなわけかもよくわからない感じになってきましたが、この僕のポンコツ感さえも「湯気」を味わううえでのひとつのスパイス、あるいはありもしない「湯気」を感じさせる第六感・第七感といった、でたらめなのかもしれません。出鱈目って、漢字で書くとそこそこおいしそうに見えます。