雨の確率

ときに、休日のたびに雨にふられるという人に出会います。一方、自分が出かけようとするときはたいてい晴れるという人もいるようです。地球上のいろんなところが、日々刻々と雨だったり晴れだったりするはずですが、どういうわけか「いつも雨」実感の人と、「いつも晴れ」実感の人がいるようなのです。確率としては、どちらも一定数いておかしくありません。


降雨という現象ひとつとっても、それがどういう状況・条件のもとに起きるかによって、降雨に対する評価は変わります。たとえば、これから出かけようと思っていたところに雨が降ってきたら、それは自分の幸せを邪魔するものに見えるかもしれませんし、映画館で鑑賞中に降り始め、上映終了までに止んでしまった雨があったとしたら、さほど惜しみ悔やみの対象にはならないでしょう。


おなじひとつの現象でも、どう評価するかはその人次第なのです。雨が降ってくると都合の悪い状況を展開中の人と、いつ雨が降ってきてもかまわない状況を展開中の人とでは、降雨という現象をどうみるかが違ってきます。


そのことを踏まえると、「一定確率で起こりうる」とわかっていることに対しては、先回りして対策を用意しておくことで、不幸な実感は減らすことができるのではないでしょうか。どうしても遭遇を避けられない不幸な実感も中にはあるでしょうけれど、ほとんどの事物・現象は、自分の生き方・考え方次第で評価が反転するものと思います。


極端な話、いつかは自分も死に至ることは、みんなが知っています。そのことを不幸と評価するか、幸福と評価するかは、自分の生き方・考え方が左右するというわけです。


雨を悪者の例にしてしまったかもしれませんが、水がなければ生きていけません。火に命を奪われた人が大勢いる一方で、私たちの生活は火によって支えられています。死が、生命を支えているということもできそうです。その人自身の「運」に、もともと良し悪しがあるわけではなく、ひとりひとりの幸・不幸は確率によって選り分けられているのではないはずです。


それでもやはり、犯罪や災害といったことで、一方的に被害を受けたり、理不尽な思いをしたりすることもあるでしょう。局所的にそこだけをみれば、一定確率で起きる不幸ととらえられるかもしれません。局所的な不幸のあとをずっと不幸にし続けるか、幸福に転じさせるかは、コイントスが決めるわけではない……と、自分に言い聞かせておくことにします。