僕の死期

幼い子や、10代くらいの子たちが、32歳の僕にとっては「ちょっと前」くらいの過去を、さも「むかし話」かのように語ることがある。語られた「むかし話」の事由発生日から経過した時間がたとえば3年だったとしたら、僕にとっては人生の10分の1程度の経過時間になるけれど、10歳の子にとっては、人生の3分の1程度、仮にものごころついてからを経過時間カウントの対象にしたとしたら、2分の1に迫る程度、ということになる。これが90歳の先輩にとってだったとしたら、30分の1程度である。




日本人の寿命は、昔と比べて延びた。何を「昔」とするかにもよるだろうけれど、たとえば70数年前と比べても延びているだろう。


平均寿命は、死に至った理由がなんであれ(老衰でなくとも、の意)、その算出のカウントの対象になる。だから、致命的な病気が流行した時代だったり、戦争でたくさんの人が亡くなった時代だったりすると、平均寿命は低年齢化する。70数年前の日本人の平均寿命には、戦争で亡くなった人の数が大きく影響しているかもしれない。




生き物の心臓が、一生のあいだに打つことのできる脈の数はだいたい決まっているという。ゾウもネズミも、その数に大きな違いはないとした有名な著書もある。長く生きるゾウの脈動の間隔は長く、短命なネズミは脈動の間隔も短い、という。




時代をさかのぼれば、日本人の寿命は30歳程度だった時代があるようだ。今の僕の年齢で、じゅうぶん死期といえる。その時代の人たちの心拍数は、現代において90年間生きる人の3倍だったのだろうか?  さすがにちょっとそれは考えにくい。仮に現代において90年間生きる人の心拍数/分が60未満程度だったとすると、寿命がおよそ30歳だった時代の人の心拍数/分は180未満程度となってしまう。心臓が騒がしくて、いられなそうだ。からだの大きさが3倍になったわけじゃない。人間が一生のうちに何回脈を打つことができるかは、その時代の社会面、衛生面、医療面などによって大きく延びるのかもしれない。




ひとつの口が「むかし」を語るとき、絶対的な時間経過としてどれくらい「むかし」なのかは、語り手によってまるで違ってくる。たったそれだけの話をしたいがために、これだけのことを述べる悠長な僕は、まだまだ死期には遠そうである。