集合知、集合心、集合体

・最後の日曜日、秋


暑い暑い言ってました。ごめんなさい、寒いです、今日。そう言っておくと、明日か明後日あたりにまた暑くなるんでしょう。それでまた、暑い暑いと僕は言う。季節は思ったより素直なんですね。


ふたたびやってくるかどうかわからない。なのに、ほっといてもまたやってくるかのように素通りしてしまう。後ろ髪引かれるでもなく、とっとこお別れできてせいせいするというのでもなく、ただなんとなく、夏をやり過ごしてしまう。再会したいからがんばる、というほどのこともなく、また会えたら、それでうれしい。


・ことばは素通りしてしまう。だから、可視化する


ネットでのコミュニケーションは、音とか映像とかいろいろあるとは思うけれど、テキスト情報が主体になっている。まだまだ、その域を出ていないし、その必要があるのかも僕にはわからない。


「ことばは、素通りしてしまう」


これは、僕が昨日はじめて出会ったある人のひとことだ。僕らは、会話や対話をテーマにした、あるワークショップの席にいた。3~4人のグループ単位で話をしている最中の出来事だった。


ネット上のテキストは、見えるけれども、見えていない。そんなことを感じることがある。もちろん、紙に印刷した文字だって、おろかものの僕には、ときに見えていないことがある。ネットだからとか紙媒体だからということが本質的な決め手になるわけじゃない。ただ、発した相手が見えていないことがある。決め手は、そこなんだろうと思う。


対話や会話といった手法だったら、相手が目の前に見えている。ネット上で言い放たれることば、特にここで話題にしたいのは、相手を傷つけかねない無配慮なものについて考察するに、その無配慮さは相手が見えていないことに由来するのではないかと思う。


ここに包丁があって、目の前の相手をグサリとやったとする。相手の身体は壊れるだろう。血が吹き出して、自分も返り血を浴びるかもしれない。極端な描写だけれど、身体を突き合わせるということは、それだけで一定の関係を結ぶことになる。そこでおこなわれるコミュニケーションにおいては、最低限の相手への尊重が自然と意識されやすい。近い距離にいる自分に、直接影響があるからだ。対話や会話という手法でのコミュニケーションを通して、身体性がいかに強い影響力を持つものかが実感できる。


・チーム、集団でものづくり、催し物を結実させること


ぼくはふだん、ひとりで動くことが多い。そんな自認がある。だから、足が遅い。いろんなことを思いつくけれど、それらがなかなか実現しない。ほんとうに僕がやらなきゃ誰も見向きしないようなことだけが残って、それがぽつぽつと姿をあらわすのみで、そんな程度で精一杯だ。


なにか、ものをつくったり、催し物を開催するためには、いろんなプロセスを経なければ最後までたどりつくことができない。発想する人、表現する人、まとめる人、発表形式となる媒体に流し込んだりフィジカル面をプロダクトしたりする人、人をあつめる人、発表の現場に立ち会って運営する人、お財布の紐を締める人、一連のプロジェクトでおっ広げたものをすべて畳んで次のことがやれるように仕舞う人……


ひとりでそのすべては、なかなかやりきれない。だから、僕らはチームという体の「ひとり」になる。集合知、集合心、集合体をつくるのだと思う。