原作の範囲 〜指標、あるいは反指標〜

さくらももこさんの著作に関連するはたらきによって、くいぶちを得ている人がどれだけいることだろう。


「作品」が、ときに多くの人の命を養うタネになることがある。クレヨンしんちゃん?  ドラえもん?  ドラゴンボール?  ヱヴァンゲリヲン?  ……原作をはなれたところで、原作の要素が生かされ、ふくらませられ、新たなものとして2次利用、3次利用されていく。


いや、ひょっとしたらこの影響の広がりも含めて「原作」なのかもしれないと思う。根源となる思想とか哲学みたいなものがひとつの形になったものが「狭い意味での原作」であり、「狭い意味での原作」というフィルターを通して、「広い意味での原作」は展開されていく。人から人へ、ときに時代から時代へ。


こんな2次利用のされ方を、原作者は果たして望んだだろうか?  と思わせるようなものに出会うこともなくはない。それだけ、原作者のコントロールの及ばない範囲にまで広がりを見せてしまうことがあると思う。それだけ、原作者は多くの人の存在に支えられて、影響を受けて、その原作のもととなる発想を生み出したものと僕は考える。これは直接的なものも含むけれど、もっと広い意味での「影響」も指していて、「原作者が生きた時代の社会的背景」くらいの、漠然とぼんやりとした要素も含んでいる。


最近、あるミュージシャンにまつわる話を聞いた。そのミュージシャンは、学齢期、とにかく引きこもっていたらしい。食事も、彼の自室の前に母親が届けたという。家族と一緒に摂ることはなかったらしい。部屋の中で彼は、コンピュータでひたすら音楽をつくっていたのかもしれない。ひきこもっていた彼自身に、直接影響を与え合うような生身の関係を持った人は、きっとほとんどいなかっただろう。彼に創作をさせたのは、生身以外のところでの社会との関わりだったのかもしれない。あるいは、ひきこもる以前に築かれたものだったのかはわからないが……。ひきこもるためには、排除する「外側」がなければ、ひきこもることはできない。できないというか、成立しない。そんな「背景」が、彼を主役にしたのかもしれない。


思うがままにやったこと。選んだとおりに生きたこと。ときに思うがままに、選んだとおりにならないこと。そうした姿がそのまま、真実をつき、善となり、美しさを匂わせ、あとに続く人々に目指される。(あるいは、「目指すべきでないもの」とされる。)大なり小なり、みな誰かと影響し合っている。