決めない覚悟 〜「機会」から「場」へ〜

場という概念には、なにが含まれるでしょうか。言い古されているかもしれませんが、ざっくり言ってしまえば、モノ、コト、ヒト、でしょうか。



「子ども食堂」に現れた女の子


昨日、「子ども食堂」に参加してきました。(「子ども食堂」とは、子どもたちに、遊んだり、勉強したり、食べたり、話をしたりする場をセッティングする取り組みである、とでも言っておきます)そこにやってきた一人の女の子と、僕は話をしました。女の子は、小学2年生とのことです。夏休みの宿題はおおむね終わっいてあとは絵日記だけなの、などと言いながら、これまでに書いた絵日記や、これから仕上げようとしている途中のものなどを取り出して見せてくれました。今が8月のおわりということもあってか、戦争体験をもとにした展示や上映の催しに出かけて行って鑑賞した、といった内容の絵日記がいくつかみられました。


僕は女の子と話すことを楽しみました。この日、こんな女の子がやってくるなんてことを僕は知らなかったし、向こうもこんな男(僕)がいて、話をするなんて思わなかったことでしょう。僕はこの日、「子ども食堂」を運営するメンバーの一員として参加していたのですが、この場を僕たちがつくったなどという認識は、なんともおこがましいものだなと思いました。というのも、この場は、僕たちがつくったのではなく、つくられたのだということです。僕は、偶然にも居合わせた女の子と僕によってつくられたひとつづきのその瞬間……「場」が楽しかったのです。もちろん、それ以外のモノ、コト、ヒト、たくさんの要素がその背景にあります。僕たちがしたことは、せいぜい、その機会をセッティングした程度のことなのです。



同じ目線の共有


運営側と訪れる側の境界が溶け合ったとき、僕は「場」を感じます。たとえばデパートの催事場なんかで、「売る側」と「お客様」を隔てる崩れない壁を感じることがあります。これは、ただなんとなく売り買いの「機会」があっただけ、という感じです。「機会」は、そこに集う人どうしを隔てる壁が溶け崩れ、境界があいまいになったとき「場」に変わる……これが、現時点で僕が「場」に対して持っている抽象的なイメージです。


「文学フリマ」「コミティア」などといった、自主制作物の即売会があります。最近、僕が関心を抱いているイベントです。「コミティア」には2回足を運んでみましたが、これはただの機会が「場」に昇華されているなぁと感じました。その瞬間その瞬間でみたときに「受け手」と「発し手」という境界づけは可能かもしれませんが、その立場は、フレキシブルにひっくり返ります。出店して売っている人も、仲間にブースを任せて他の出店を見に行っている様子がうかがえます。先ほどまで「発し手」をやっていた人が、たちまち「受け手」になるのです。これは、漫画だとか文学といった表現媒体をきっかけにした「機会」が、(僕の考える定義による、それも熱意高めの)「場」に昇華されている実例といえます。


「ヒト」は、子ども食堂をセッティングする大人と、訪れる子どもかもしれないし、漫画や文学の自主制作物を持って出店する人と、それを楽しもうとする人かもしれません。きっかけや背景となるモノ、コト、ヒトはそれぞれ異なるでしょうけれど、「場」たるものには、「同じ目線の共有」がいつもあるように思います。こころの目と目が、合っているのです。



決めすぎない覚悟


ときに、「結論の出ない会議」に出くわすことがあります。そんなとき、何かいっしょうけんめい、場を「つくろう」としてはいないでしょうか。「場」は、できるものです。やってみなければわからないものは、わからない。いろいろな想像をめぐらせて、準備することはできます。つながろうとか、つなごうとするあざとさが滲み出てしまわないように「つながる」場をセッティングするには、「考えすぎない」のもひとつの手かもしれません。用意しすぎなくて、いい。用意しても、強いないのが良いでしょう。用意したことによって、心の安定が得られる効果もありそうです。