こころのようなもの


背景も変わるし、自分も変わる



背景は刻々と変わるから、昨日とおなじものをはめ込もうとしても、今日はまた全然違った絵になるということを最近思いました。そして、はめ込もうとする主体がヒト(自分)だとしたら、その主体もまた、昨日とおなじではありません。背景になじむ主体、ミスマッチな主体、映える主体、他の主体のための余白を残す主体と、いろいろです。なにが主体でなにが背景か、判別のままならない絵もあることでしょう。



背景化する主体



かつては主役だったものが次々に背景になっていくというのが、常なのかもしれません。家にテレビがなく、地域でテレビのある飲食店に集まって、行事の中継やら娯楽番組やらを観賞した時代もあったでしょう。テレビが普及してからは、家庭の居間の真ん中、最もどこからでもよく見える位置に据えられて、家族みんなに見守られた時代もあったでしょう。かつては情報源の主役はテレビだったが、今はネットが中心だという家庭では、テレビは小さなものがリビングの脇役として置かれていたり、あるいは家庭内から排除されてなくなっていたりするかもしれません。



追求する精神性



モノを進化させるのは、ヒトです。その当人であるヒト自体が進化しているかといえば、そう変わるものでもないような気がします。もちろん、知識や技術の蓄積・向上はあるでしょう。そういった面での進化はしています。でも、「もっとこうだったらいい」「こんな可能性があっていいんじゃないか」という、新たな価値を追求する姿勢、精神性といいますか、その「こころのようなもの」は、時代によってそう変わるものでもないのかもしれません。かつてもいまも、追求し、挑戦することで得られる幸福があるように思います。



読んでいただき、ありがとうございます。