「雑」誌について

おおかれすくなかれ、さもネットの世界がこの世のすべてかのように幻惑される瞬間が、誰しもにあるのではないかと思います。一方で、ネットは手段(媒体)のひとつであり、それに頼らない生き方はいくらでもあるでしょう。無理に排除しようとすると生きづらいかもしれません。てきとうに付き合って、てきとうに利用して、てきとうに利用されるくらいの塩梅で納得して生きているのがわたしです。そういう人は、案外多いのではないでしょうか。


週刊誌というものを買ったことがありません。(習慣漫画誌ならあります)駅のごみ箱や、列車内の網棚に残されている場面をよく見かけます。それだけ、紙に印刷する媒体としては早いスピードで消費されるものなのでしょう。嘘や邪推、不確実な情報が多いイメージで、あまり良く思っていませんでした。それでも、膨大な数の人間がかかわって毎週発行されているのですから、特にぼくのような疑り深くて保守的なスタンスの持ち主には、刺激や考えるタネ、自分の偏見をくつがえす発見や気づきがたくさんころがっている媒体なのかもしれません。週刊誌を買ったことがなかったという昨日までの自分と距離を置き、眺めるために、いっぺん買ってみるのもいいかもしれません。


雑多な内容の雑誌が多いな、なんて思います。「雑」誌なのだからあたりまえといえばそうなのですが、商業的なアピールが多く、浅い内容に終始していて、めくって見てもあまり面白くないなぁと、ふといくつかの雑誌にふれて思ったことがあるのです。


専門的なテーマを持った雑誌も当然あって、そのひとつのテーマを雑多な角度から取り上げていて、面白いと思えるものもあります。「雑」誌といえども、テーマといいますか信念めいた「裏テーマ」みたいなものがひとつあった方が良いのかもしれません。ぼくにその信念を感じ取る力が足りないのか、実際に信念のない雑誌が多いのかどうかは知りません。どちらの可能性も捨てずに、信念を読み取る自分の力を磨きつつ、信念のない発信を疑うことも同時に続けていきたいと思います。


ネット上には、多く検索されることの争奪戦に勝つためのつくりを持ったサイトが増えたような気がします。あるキーワードを検索すれば、誰が検索してもそればかりが出てくるといった状況です。その決まったサイトひとつを読んで、その検索したキーワードについて知ったような気になりがちですが、そのことにもっと疑いを持つべきなのかもしれません。ネット上でのものの調べ方というのが、調べたいキーワードを入れる、検索ボタンを押す、トップ付近に表示されるサイトだけを読む……というルーティンに陥りがちです。それって、なんて自分の世界を狭めていることでしょう。


雑多な視点、雑多な方法を一人ひとりが持っていて良いと思います。切り口が雑多だとしても、信念めいたものがあれば、一人の人間が浮き彫りになるでしょう。ありもしない群衆性に惑わされがちなご時世にこそ、一人ひとりの人間をきちんと見つめたいと思います。