頼まれごとの「小鉢」

ぼく自身が頼みごとを滅多にしないせいか、ぼくに何かを頼んでくる人もあまり多くはありません。そのせいもあってか、頼まれたことは妥当かどうか選ぶ余裕もあるし、妥当だと思って引き受けたことには納得して取り組みます。


頼まれごとの内容が、頼まれなくてももともと自分がやりたいようなことだった場合、よろこんでやれます。ちょっとめんどくさいなぁと思うようなことでも、他者の介入がなければなかなか自分からは取り組まないような類のことは、刺激になるし、気づきや発見が出会いがしらに転がっていたり、学ぶことも多かったりします。ぼくが腰の重いニブチンでぐうたらな怠け者なので、ありがたいくらいです。


頼まれなくてもやる、というようなことを見つけること、取り組むこと、それこそが生きるということなんじゃないかなぁと、ばくぜんと思います。ハードルの高いことのようでもあるし、かつ、決して一人ひとりが逃げてはならないテーマなような気もします。


そして、見つけたからといって、そのことの安易な繰り返しのうえにあぐらをかいてもいけないと思うのです。昨日までの自分を踏まえて今日のこころみをしないと、すぐさま生きた心地がしなくなります。


たとえばぼくは、作曲したり演奏したりするのですが、新しい曲作りだったり、新しい曲の演奏のための練習だったりに着手していない期間がある程度蓄積してくると、生きた心地がしなくなるのです。そうして、新しい曲をつくらざるをえない精神状況に、おのずとなってくるのです。これがぼくにとっての「生きる」ということ、バイオリズムそのもののような気がしています。


頼まれごとを引き受けることには、「新しいこころみをしている」範疇に自分をとどめてくれる効果が含まれているようにも思います。自分で自分を律してコントロール出来ている人には、そうした効果は必要ないのかもしれません。かえってやりすぎてしまうような場合は、その効果が邪魔になることもありそうです。


「頼まれごと」にどれだけ自分にとっての「新しいこころみ」が重なっているかが、受け入れるかどうかの決め手かもしれません。自分のバイオリズムに他者の介入をどれだけ認めるか、その配合を主体的に決めるというのが、生きるうえであらゆる人に課されるテーマなのではないかとも思います。


こんなつまらない言葉を並べ立てなくとも、みんなやっていることでしょう。


「今日のきみの、新しいこころみって何?」


毎夜、問いかける自分がいます。