ありふれた希少性

おまつりって、どこからともなくひとがあらわれます。どこにこんなにいたの?!  というくらいに、あらわれるときにはあらわれるのです。

少数派の象徴として語られることのある存在といったら、オタク(近年では「ヲタ」と?)でしょうか。どこにこんないたの?!  というくらいに、コミックマーケットにはひとがあつまります。海の近くに建てられた巨大な展示場が、ひとでいっぱいになります。少数派といったって、一ヶ所にあつまるには狭く感じるくらいの規模の数の人が、この国にはあるのです。(いえ、あつまる会場の規模次第では、「国」なんておおげさに言わずとも……「わたしの部屋」に10人呼んで鍋をしたら、きっと狭くて狭くて仕方ありません)

少数派多数派なんて言い方も、たいそう二元的なものいいですね。その人が自分を「ヲタ」と認めるかどうかは別として、多くの人に「ヲタ性」みたいなものはあることと思います。ぼくらは(いえ、少なくともぼくは)多くの人の中に、割合的に微小に存在する性質を取り出して「少数派像」をつくりあげているのかもしれません。

たとえば、「タモリ倶楽部」というテレビ番組で取り上げられる内容を「マニアック」と称することがあると思います。番組に登場する、その道の紹介をするような人は自認ありの「マニア」かもしれませんが、視聴するほとんどの人はその道の「マニア」を自認していないでしょう。けれども、視聴を楽しめる程度の「マニア性」を、多くの人が持っているのです。

お笑いの芸として「あるあるネタ」というのがあるかと思います。あれも、かなり局所的で具体的な場面や光景を切り取ってネタにしているにもかかわらず、共感させ笑いを誘う側面があると思います。切り取られた場面や光景に近いものを、実際に自分が体験したことがあって笑える場合もあるのですが、それと同じか、それ以上に多くの人が、実際にはそのような体験を身をもってしていないけれど、「あるかも」「ありそう」といった、自分の中の割合的には微小な性質が反応して笑っているのではないでしょうか。

おまつりに多くの人がつどう理由も、なにもその人が自認ありの「おまつり野郎」じゃなくとも、微小な「おまつり野郎性」があるだけで、つどう理由としてはじゅうぶんであり、そうした希少性、限定性を楽しんでいるのかもしれません。

365日のなかで、自分自身が「おまつり」に実際に参加する日数というのは圧倒的に少数だという人がほとんどなのではないでしょうか。そうした人たちの「おまつり野郎性」も、その人を構成する成分の割合としては、圧倒的に微小なはずです。にもかかわらず、そうした性質は、多くの人のなかに確実に存在している……希少性、限定性が、ありふれているともいえます。なんだか矛盾しているようですが、これはほんとのことなんじゃないかと思うのです。