社会の「色」

電車に、たまに乗ります。同じ車両にいる人たちを見まわしてみると、すべての人が手元のスマートフォンに視線を落としている……なんてことがあります。

同じく、電車にたまに乗ります。ある平日の午後六時半をまわった頃、中央線三鷹駅のホームで、下りへ向かう快速電車に乗り込んだとき。なだれ込むように乗客が押し寄せ、人と人のあいだに自分のからだがはさまって、足の裏が地面から浮いているのではないかと思うほど密着している……なんてことがありました。

いまの自分のくらしのなかで、ときおり、これは異常だと思う場面に出くわすことがあります。自分もその異常な場面をつくっているエキストラの一部です。

時代が違ったり、ところがちがったりすれば、いまこの場の価値観ではまったく信じられないような文化、風習、常識がまかりとおっています。そうした文化、風習、常識のさなかにいる向こう側の人たちからすれば、こちらのこの場での価値観も、同様に信じられないものでしょう。

人という種が、べつものだったわけじゃありません。人どうしがあつまりあうと、色をなし、染めあい、染まりあうかのようです。そうした力がはたらくかのようです。染まらないでいる状態を保とうとすると、それなりの労力を要します。お金だとか距離だとか、労力以外のなにかしらの代償かもしれません。

いまこの場での価値観も、どんどん置き去りにされる運命にあるのだ、とも思います。

25年くらい経過した頃に振り返ってみると、「そんなことしてたの?!」というようなことでいっぱいかもしれません。

いえ、それはこの時代、この場所においても、みんな気づいていることでしょう(みんなとまでは言えなくとも、一定数の人たちが)。そのときそのところにあるような気がしている「色」、それは表面的なものでしかないのかもしれません。

色とりどりのくだものにナイフを入れたら、どれもおおむね白かった(あるいは、無色透明)……水分が多いものは、周囲の色を反映しやすいですよね。人間のからだもほとんど(すくなくとも半量以上)が水分ですし、その社会に色をつけているものがあるとしたら、それは人間に含まれるわずかな部分でしかないのかもしれません。あるいは、人間に含まれないなにか、それ以外の要因があるかもしれませんが……。