引き直す、スタートライン。

とある編集者の語りを収録した本に、「読者層を想定するな。本を手に取るのは、読者層などではない。ひとりひとりの読者だ」というようなことばを見つけて、はっとしました。どんな人が何に関心を示すかなんて、わかりません。もちろん想像するのは自由ですし、大切なこととも思います。ですがたとえば、20代の女性が関心を示すのはこういうものだろう……なんてことを寄せ集めて押しつけるようなことは、失礼なんじゃないかというような記述もありました。それを読んで、自分でもほんとうに納得しましたし、その通りだと思いました。

女性向けに編まれたであろう雑誌を本屋さんで見かけます。表紙が素朴で素敵だな、なんて思って手に取ります。パラパラとページを送ってみます。写真も素朴なものを素朴に撮ったものが多く、気になる気持ちをふくらませながら、目次のページを開いてみます。そこにならぶ記事の見出しに、読みたい気持ちをさらに掻き立てられる……なんてことが、これまでに何度あったかわかりません。

僕は、自分のなかに「同世代くらいの女性のような指向(嗜好)を持った僕」がいるのを感じます。もちろんそれは、僕(あるいは僕がまわりの世界から影響を受けて形成された僕)の決めつけでしかなく、僕が「同世代くらいの女性のような」と認めたそれは、同時にそうでないことも認めなければなりません。

たとえば「同世代くらいの異性」(もちろん「ひとまわりもふたまわりも異世代の同性」でも、なんでも良い)なんてものを、くくって語ろうとしたり、想定してなにかをしようとしたりすることには、はかりしれない誤解をともなうおそれがあります。ただ、そこにこそ、価値があるのかもしれません。人物像を「層」として想定することなしには、その誤解は生まれませんから、まずは考えて、想定してみる、くくってみるということは、有益な発見へのスタートラインなのだと思います。そこから進んで、当初の「スタートライン」を離れたところから眺めたときに、いかにじぶんが抱いていた考えや読みがズレていた、間違っていたかを認め、あらためていま立つ場所に「スタートライン」を引き直す。そんなことの繰り返しのみによって、ぼくらは生きていられるのかもしれません。発見がなくなった人生なんて、つまらないことでしょうから。

つまらない境遇におちいる恐怖と、純粋な好奇心のはざまで、つき動かされている。過去と未来と、現在が重なります。