「わたし」をみる「目」が、かわったら。

なにかと、外の世界を見ようとしてしまう。観測者になって、知ろうとしてしまう。知ってなにになるというのだろう。なにかとくべつなはたらきをして、売れっ子にでもなれるという幻想に突き動かされているのではないか。そんな自分を、否定することもない。


同時に、自分のことも見ようとする。自分って、どんなやつだろうか。自分を幸せに導いてやるには、どうしたらよいか。自分を幸せにしてやれるのは、自分しかいない。だれかに頼って、不満を抱くのは、自分の仕事ではないはずだ。


自分を感動させるのは、自分の思う自分を打ち砕けたときだ。自分のはたらきで、それまでの自分を凌駕できたとき。自分の思い込みを自ら覆すことほど、痛快なことはない。だから、なるべく自分で自分を見ようとする。でも、ときにそのことにすら、限界を感じてしまう。


「あなた」の目で「わたし」を見たらば、どんな様子に見えるだろうか。「あなた」は、だれでもかまわない。「わたし」を見ることのできる人なら、だれでも。実際、「わたし」のことを定点観察できるような立場にいる人というのは、そう多いものではない。身近にいる人がふさわしいだろう。


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「わたし」は、風呂に本を持ち込んで、なにやらぶつくさいっている。風呂が長いのはいつものことだが、声に出してなにかを唱えているのは、昨日までとはやや違う。なにか気を病むことでもあるのだろうか。そのことついて尋ねたら、一冊の詩集を渡された。先ほど「わたし」が風呂に持ち込んでいたものだ。読んでみてほしいと「わたし」は言う。開いて渡されたところのページにある、ひとかたまりのセンテンス。そこに目をやり、視線を這わせる。今度は、「音読してみて」と「わたし」がいう。これは、すぐにその通りにはできなかった。恥ずかしいと言ってみたら、「黙読してもわからなかったことが、音読するとわかる。そのことを、知ってもらいたかった」と、「わたし」が言う。「わたし」がトイレに立ったとき、こっそり声に出して読んでみた。すこし、わかったような気がした。


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「わたし」を見る目は、たくさんある。「わたし」がいろんな人と関わりを持とうとするほど、その「目」は増えるだろう。ただ、むやみに増えても仕方がない。古今東西のコンビニのレジに姿をあらわしたって、たくさんのコンビニ店員たちの目に映る「わたし」の姿は、そう変わり映えするものでもないだろう。


「わたし」は、「わたし」を見てくれる「目」を頼りたい。「わたし」を丁寧に見てくれる、「目」を。丁寧に見てくれる「目」には、丁寧に「目」を向ける必要がある。そのことなしには、丁寧に「目」を向けられることはなくなってしまうだろう。


「わたし」は、「わたし」を見る「目」があることを、うれしく思う。