きみの夢は、量子的。

素粒子というのは、いろんな状態が「重ね合わせ」なのだそうです。Aでもあるし、Bでもある。人間でいったら、怒ってもいるし、喜んでもいる、といった感じでしょうか。たくさんのいろんな状態が、「重ね合わせ」なんだそうです。

そしてそれらの重ね合わせのいろんな状態は、「観測する」と、ひとつに決まってしまうんだそうです。ほんとうは怒ってもいたし喜んでもいて、そのどちらも正解だし本当のことだったはずなのに、「観測」してしまったら最後、怒っているか喜んでいるかのどちらかになってしまう。そんな性質があるんだそうです。

たとえば、夢の話(睡眠中にみる「夢」でなくて)なんかをするとき、自分でもよくわかっていないのに、訊かれたら無理やりにでも言葉にして切りとる、というようなことがあるかもしれません。本当は「わたしの夢」は、Aでもあるし、それと同時には成立しないようなBでもあって、そのどちらもが「重ね合わせ」に存在していたかもしれないのに、そうして無理にでも言葉にして切りとることで、AだとかBだとかの、どちらかになってしまう。論理を組み立てたり、適切な言葉をえらんで表現する力が至らなければ、へたすればA未満にもB未満にもなってしまいます。

また、どんな人が、どんな経緯で、どんな訊き方をするかによっても、おなじことを訊いてもその答えはまったく違うものになってしまうかもしれません。おなじことを訊いたはずなのに答えが違ったものになるなんて、実は正確に「おなじことを訊いている」ことになっていないのかもしれません。もしくは、答えがひとつではないのかもしれません。Aでもあるし、Bでもある。でも、答えたらどうしてもAかBのどちらかだけになってしまう。AとBの両方だよと言いあらわそうとしても、そうしたことによって伝えることができるのは、わたしが「AとBの両方だよ」と言ったという事実だけであって、「わたしの夢がAでもありBでもある、重ね合わせの状態であること」を相手に観測してもらえることにはならないのではないかと思うのです。

「夢を聞き出そうとすること」を考えるとき、そうした素粒子くんたちの「重ね合わせ」の性質のことが思い浮かびます。何度もなんども根気よく観測を重ねて構築される信頼関係のうえにのみ、見えてくる事実もあるかもしれません。