東京ドーム、いくつぶん?

人々の集まる機会として、じぶんが経験したことのある一番規模の大きなものはなんだったかと考えてみます。最初に思い浮かんだのが、ディズニーランドです。それから、諏訪湖の花火大会が思い浮かびました。どちらも、絶え間なく人が流れて出入りするものですから、「ハイ、いまこの瞬間、キッチリ〇〇人が収まったね」といえるようなものではありません。とにかくたくさんの人の往来があるということでは、ぼくの地元、実家の近くの公園で開催されるおまつりもそうです。一定範囲内に人が密集してしまうと、その機会の規模感をひとときひとところに把握するのが難しいので、ディズニーランドや諏訪湖の花火大会と、ぼくの地元のおまつりの規模がどれだけ違うかということも、ぼくにはうすぼんやりとしかわかりません。


東京ドーム〇〇個ぶん……なんて表現で、具体的な規模を示す例に出会うことは少なくないでしょう。東京ドームに入ったことのないぼくには、はなはだよくわかりません。東京ドームが満員になったときの人数が〇万人だとかいうことも、ぼくは知らないし見たこともありません。


話をしていて、「〇〇の××倍、△△だ!」といったような言い方をするとき、話し手は、じぶんが身体性をともなって想像可能な規模感を超えたところの数字を選んでいるように思います。想像可能な規模感を超えるという条件を満たしていれば、そこから先はいくら大きくても良いようで、とにかく具体的にイメージ可能な規模を凌駕していることを伝える手法なようです。


世界にざっくり、70億人がいます。この規模感を具体的に想像可能なものにするには、どうしたら良いでしょう。自分で操縦する飛行機で高いところまで上がっていって、地球の全体がなんとなくいっぺんに視界に入るくらいのところから毎日眺めていたら、わかるようになるでしょうか。人のいるところなんていうのは、地球上を占める割合としてはごくわずかだということに気付くかもしれません。ただ、その「点」の及ぶ範囲が非常に広域なのではないか……というのは、ぼくの想像ですけれど。


意志を持って、これだけのことをやった、見た、触れた、ということが持ち主のものさしとなるのでしょう。学齢期に形成されたものさしは、使い慣れて扱いやすく、学校を出たあとにもなにかとものごとを認める基準になりがちですが、それだけでは把握しきれない事象、事態に出会うことがあると思います。自分の身体性だけではとらえきらないような規模の社会に、戸惑うことばかりです。自分のものさしの足りなさを補うものが、想像力だったり表現力だったりするのかもしれません。