「生き方」はレンタルできない

僕はいま32歳です。それが若いかどうかわかりません。少なくとも、高校生の頃の僕と比べたら、若くはないでしょう。

「老いる」ということは、時間経過にともなう変化を言い表しています。嫌なものというよりは、自然なことなのかもしれません。

一方、「老ける」といった場合、変化というよりは「劣化」という評価を付すニュアンスを感じてしまうのは僕だけでしょうか。たとえば自分でじぶんのことを「老いた」といった場合、ただ単に時間の経過にともなう変化を自認した、というニュアンスにとどまる気がしますが、「あいつは老けた」とだれかに言われたとしたら、ちょっと不快に思うかもしれません。

時間の経過には抗えません。心の持ちようだったり見た目だったりが変化するのは、とらえようによってはいつだって「成長」です。(参考『MORI Magazine』大和書房、著・森博嗣)

変化することから逃げず、自分を認め、流されるのではなく「流れる」こと……それが、「老ける」ではなく「老いる」に含まれるニュアンスなのではないかと想像します。(参考『流されるな、流れろ! ありのまま生きるための「荘子」の言葉』洋泉社、著・川崎昌平)

右を見ても左を見ても、「老ける」ではなく「老いて」いく、成長していく先輩たちがたくさんいます。かれらの生き方をそのまま借りてくるわけにはいかないからこそ、自分で生きる意味があるのだと思います。