発想の収穫期

旬の食材が短い時期に集中して獲れるみたいに、やたらといい発想が集中する時期ってありませんか?


ぼくの場合はたいてい、あたらしい楽曲がなにかできないもんかといつも考えているのですが、ときおりしばらく発想がない時期がおとずれるのです。


その膠着状態にだんだん我慢ならなくなってきて、ああつまらない、そろそろなにかおもしろいものがほしい、だけどまだできない……じぶんはもう枯れたのか?  この不満はなんだろう?  ああ、もやもやしてたまらない……でもやみくもにつくろうとしてもろくなものはできないし……けれど何もしないわけにもいかないから、やみくもにもがき、あがき、大小のインプットを積み上げながら、がらくたのようなアウトプットをくりかえし……とやっているうちに、ひょいといいものがあらわれてくれるのです。


しかも収穫期とでもいいましょうか、思いつくスパンというのはそう、うす~く平均的にならされた周期というよりは、固まってずるずるっと引きずり出されることが多いようです。


たくさん獲れてしまうと、それらの調理や加工に入ります。それでしばらく、やることには事欠きません。まるで、旬に食べきれないほど獲れる食材のようですね。そうしてつくられた保存食を、だれかに食べてもらったり、じぶんでつまみ食いしたりします。


こうした大なり小なりのバイオリズムの起伏が、「生きているもの」の特徴なのかもしれません。「起」の部分の盛り上がりを利用して、いかに「伏」を生き延びるか。それが、おのおのの生存戦略なのでしょう。


それにしても、いつも安定して平坦だと、だんだんと生きている実感が湧かなくなってきます。安定したいのか、不安定でいたいのか……そのはざまを行ったり来たりすることが、生きているものの特徴なのかもしれません。