妄想独「禅」的◯◯(もうそうどくぜんてきまるまる)

禅というものがどんなものなのか、まったく僕はよく知りません。ここではあえて初心者(未満)の間違った想像を尊重し、ここで筆を置くまではそのまま「禅」についての知識をこれ以上求めることなく、はなはだ無知なものとして記述をすすめます。

僕は音楽をやっています。それが具体的にどんな作業かといいますと、曲をつくって、生演奏を録音する作業です。現代っぽく、「コンピュータに演奏させる」ということはほとんどありません。あえて、古典的なスタイルを貫き通しています。このスタイルへのこだわりも、これといって理由があるわけではありません。強いていうならば、音符の高低やタイミングや長さだけでなく、その音の強弱やニュアンスづけ、音色づくりなどのすべてをコンピュータ上でつくろうとする労力よりも、自分自身で演奏する労力(およびその体験と経験)をえらんでいる、ということでしょうか。

さて、話を戻しますと、そうして生演奏を録音するために、同じ演奏内容を繰り返し繰り返し練習します。反復に反復をかさねて訓練します。そのうちに、ふと、あまり「考え」ずに演奏できるようになるタイミングがやってきます。まるで、ひとたび習得すれば、なにも考えずに自転車に乗れることによく似ています。さらには、その行為をしながら、他のことに自由に思考を割けるようになります。他のことをせずにただなにかを考えるよりも、その習熟した行為をしながら他のなにかを考えたほうが、むしろよいアイディアが浮かんだり、論理的な道すじが立ったりすることもあります。

この状態って、ひょっとして「禅」みたいなものに近いんじゃないかと、なにも知らない門外漢の僕は勝手ながら想像します。つい、ある「行為」に習熟すると、それをやりながら他のことを考え出してしまいますが、そこをそちらにいかないように、ただただ「その行為」だけをするようにしたら、ひょっとしたら「禅」に近いのじゃないかと思うのです。演奏をしていて、「いま、力が抜けている(余計な力が入っていない)」「自然体だ」「からだが軽い」「思いどおりに動く」「楽で、こころよい」「たのしい」「きもちよい」といった感じになるときがあるのです。これらの「感じ」(そうとしか呼べず、ほかになんといっていいのか見当たりません)に、僕が何も知らない「禅」というものを重ね合わせてみて、そのどことない調和に、勝手にうなずいてみるのです。

さて、ここで筆を置いたあとに「禅」についての正しい知識を求めたときに、ここまでの僕の想像がいかに間違っていたか、そうでもないかというところが、またたのしみでもあります。もしかしたら、そう簡単に正しいか間違っているかなんてわかるようなものじゃないかもしれません。とてつもない規模の山に分け入ろうとしているのかもしれなくて、おじけづいて入り口で引き返してきたりして……それはそれでなさけないですし、すでにここまでの想像が、実際の「禅」を恥ずかしいくらいに取り違えたものかもしれません。

だいたいいつだって、過去の自分って恥ずかしいし、なさけないんですけどね。