生物中心主義の不覚

レッサーパンダとジャイアントパンダ。人間に見つけられて先に「パンダ」の名を付けられたのはレッサーパンダの方とのことですが、「種」としてどちらが先に地球上に登場したのかは、どうなんでしょうね。だからなんだというわけでもないのですが……


進化の起こり方について何かの本で読んだことです。例えば、キリンの首がなぜ長くなったか。それは、キリン(の先祖)の中で、少しでも首の長いものが生き残って子孫を残すということが何代も何代も繰り返されたために、だんだんと種のなか全体でも首が長いものばかりになった……というようなことらしいです。


それを思うと、レッサーパンダとジャイアントパンダの種の分岐がどこにあったのか、いえ、もっとうんとみみっちい表現をあえて選べば、「種としてはどちらがセンパイなのか?」という問いへの答えを考え出すだけで、とてつもないスケールの生物史が対象になってくることと思います。純粋にそのことを調べ、考察することはたいへん意義深いでしょう。先ほどの「どちらがセンパイなのか?」なんて問題は、その意義深さの前ではもはや問題ではなくなります。(ん?  矛盾してるでしょうか?)きっかけなんて、なんでもよいのでしょう。


そうした長いスパンを視野に入れてとらえてみると、「ジャイアントパンダが圧倒的な人気者になったけれど、レッサーパンダの方が『パンダ』の名を持ったのは先だったんだよ!  でも直立するレッサーパンダ『風太くん』をきっかけにレッサーパンダも人気者になれて、なんかよかったね!」という一連の流れも、ごくごく最近の、人間から一方的にあてつけられた小事でしかありません。人間からパンダと呼ばれようがどうされようが、うんと前から命懸けで生きてきた結果、現在のレッサーパンダとジャイアントパンダのあらゆる差異が生じているわけですね。元をたどれば両者は同じ生物、さらに一歩下がっていえば人間だって同じ生物だったわけです。


自分が人間であり、現在を生きる者であるからして、ついつい人間中心のものの見方、現在中心のものの見方になりがちな自分たちのことをふと思います。