お腹を、満たす。心を、満たす。〜「子ども食堂」にみる社会的アプローチ〜

地域のおじさん、おばさんたちが公共施設だとかちょっとした調理が可能な場所に集まって、食事やらなんやらを見ず知らずのその地域の子どもたちにふるまう。なんなら、その食事を一緒につくるところからやる……「子ども食堂」と言われるような取り組みが全国に浸透して、だいぶ時間が経ったと思われるこの頃です。

僕は仕事柄、そうした会についての話題に触れたり、ときには取材をしたりという機会がこれまでにありました。「子どもの貧困」だとか「相対的貧困」なんて言葉が頻繁に使われるようになり、そうした言葉がいくぶんすり減った響きに感じられ始めているようにも思います。

当初は「貧困」という問題の解決を主な目的として、そうした会の多くが始まったかもしれません。ところが、実際にそうした機会に集まってくる子どもたちというのは、何も本当にお腹が減って困っている子どもたちばかりではありません。むしろ少ないといえるでしょう。では何を求めてそうした場所にやってくるのか?  といえば、「家庭や学校以外での人との関わり」に比重が置かれているのではないかと思います。強いられるわけでもなく、「そこにいていい」。いま、「自分を受け入れてくれる場所」がウケているのです。

こうした機会を運営するメンバーになっている人に多いのが、子育て経験があるけれど自身の子どもはもう大きくなっている人だったり、退職を機に自分の時間や労力の使い方を地域での活動にシフトした人だったりします。すごく乱暴でがさつな表現をあえてしますと、いわゆる「近所のおせっかいおばさん・おじさん」のような存在です。もちろんそうした人たち以外にも、あらゆる世代の人がいます。現在進行形で小学生くらいの子どもを育てている人もいますし、社会的な話題として語られることが多いためか、そうした分野に関心の強い10代や20代の学生もたくさんいます。そうしたさまざまな人たちで構成される、「運営者どうし」の交流の場にもなっているということが、これら「子ども食堂」的な活動が盛んになったひとつの要因でもあるようです。そこにもちろん、メインターゲットである子どもたちが直接絡みます。

その「場」をゆるくつなぎ合わせるものが、「食」という要素であること。これはもう、必然という気さえします。コミュニケーションや交流を強いられることもありません。一緒になって、同じ食べものを囲んで、食べる。それだけで帰ったっていいわけです。運営者だって、コミュニケーションに長けているに越したことはありませんが、話がうまい必要もありませんし、料理がヘタでもかまわないのです。長いこと家庭を顧みずに仕事一筋でやってきた、俳優の高倉健さんがフィクションで演じることがありそうな役柄のキャラクターがそのまま現実に降りてきたような方々も、そうした運営者の中にいたりします(表現に僕の妄想と偏見が含まれますが)。

すり減った響を帯びてきたようでも、それでもまだまだ「子ども食堂」的な取り組みをこれから始めようという機運の高まりは衰えません。「子ども食堂」という形ではなく、もっといろんな形も出てきています。「食堂」よりももっと「学ぶ、遊ぶ」に比重を置いたものですとか、多様化しています。フードロスを減らし、食料支援に活かすことにつながるしくみがまたひとつ新しくできた、なんて話も聞こえてきています。

食べるものが必要なことと同じように、さまざまな人と関わって心を満たすことが必要だということに、社会が気づき始めているのかもしれません。