シンキソウ 〜心に生えた草〜

音楽やるとか、何か自分や誰かの未来のために勉強するだとか、やらなければすぐ死んでしまうわけじゃない類の活動ってあるじゃないですか。で、そういうものに僕らは時間と労力とお金の一部を費やして夢中になったりすることがありますよね。


それをしなくてもただちに死ぬわけじゃないのですが、一方で、そういう活動をしないのは自分にとっての「死」と同義であるように位置付けている自分がいるのです。すごく矛盾しているように思います。どんなに完全な論理や言葉づかいをもってしても、この世界のことやら人間のことやらは説明するのが難しい、あるいは出来ないのですから、ましてや僕のあやふやな論述力と言葉づかいでそんなものが説明できるかといえば、夢のまた夢、もう映画の中の映画というくらいにフィクションなわけであります。なんだかよくわかりませんが。


僕は、音楽をやらずにおれないのです。自分の時間を使って、体力を使って、お金はあんまり使ってませんが、あらゆることに換えがきくような貴重な何かを費やして費やして、それでもやらずにおれないのです。


家族のいる僕の時間というのは、もはやひとりのものとも言い切れないなぁというのを実感しています。家族ともっと直接的に共有できるものごとのために、時間や体力やお金を使う選択肢だっていくらでもあるはずなのですが、僕は自分の音楽をやらずにおれないのです。だから、ある意味、共有物としての家族の時間も拝借して、僕はしこしこと自分のやりたいことのために遣い込んでいるわけです。それって、なかなか許されるようなことではありません。その「借りものの時間」を、家族に返すあてがあるのか?と問われても、現実的に返済の目処が立っているわけではありません。借金まみれの破綻男と評されても、反論の余地もありません、ある意味で。


まるで僕は、直接的な影響をすぐに計上可能なものだけを信じすぎることを、疑っているみたいです。自分のおこないは、目に見えないかたちで誰かの未来のためになっている、そんなことを微塵も信じられなくなっていたとした、さすがの僕もとっくのとうに音楽〈やらなくてもただちに死ぬわけじゃない類の活動〉なんかやめているでしょう。


目に見えなくても、実在するものはたくさんあります。それは、本当に、人間の目でただ見えないだけなのです。高精度な電子顕微鏡でのぞけば、ちゃんと見えるのです。あるいはそれに代わる何かで観察すれば、ちゃんと存在するのです。そうした、ほんとうに存在するものごと、「ほんとう」のすべてを人間の意識の表層でとらえて、追いかけ切るなんてことは困難です。だから、僕のあらゆるおこないは、ときに風に消えてしまうかのようです。


それでいて近くに生えた草の穂を少しでも揺らすことができたなら、勝手に僕は本望なのです。それは、誰かの心に生えた草かもしれない。