笑顔の射しあい

つらくても笑ってみると、その状況って、「楽しい」ととらえてもおかしくない状況だということに気付きます。どんなものごとにも必ず、自分が見ている「表」があれば、見えていない「裏」があるものですね。むしろ、自分が見ているのは常に「裏側」でしかない、というくらいに思っておいて良いのかもしれません。自分の知らない面を見ているたくさんの人が存在している。そのことを想像する力が、新たな好奇心を生むのかもしれません。

「笑顔は光源」といったところでしょうか。ものごとに対峙するとき、自分の目の前の面にいつも光が当たっているとは限りません。目の前に露出している「面」でさえ、暗かったら何も見えていないのに同じです。「ここは暗い。何も見えない。面白くもなんともない。場所が悪いのだ」とつぶやいて去っていくのも自由ですが、誰かの「光」が照らすものを探し求めてさまよい、永遠に「集り」を続けることになるでしょう。目の前の暗がりは、自分の笑顔ひとつで照らすことができるのです。

自ら輝いている人は、こちらのことをよく見てくれているのだ!ということに気付きます。笑いかけること、笑顔で動き回ることには、周囲の人を「主役」にする効果がありそうです。

明るく見える人でも、実際は他者によって光を当てられることで明るさの中にいるという場合があります。みんなの注目を浴びるのに慣れてしまうと、自分自身が光を放つのを忘れてしまうことがあるかもしれません。音楽やら踊りやら演劇の舞台の上で強い照明のもとにいると、演者は客席のお客さんの顔がほとんどわからなかったりします。光やら音やら空間のデザインやらで加えられた様々な「演出」があることを、観る方も演る方もときおり意識すると良いかもしれません。純粋にお互いが放つ直接の光を射し合うような、色づけのないコミュニケーションの機会を大事にしたいものです。

自然光にはあらゆる色の波長が含まれており、たとえば「赤く見える物質」は、他の色を感じさせる波長より「赤」を感じさせる波長の光をたくさん反射する性質がある、といったような科学の知識を聞いたことがあります。自分が作為的に「赤」を感じさせる波長の光ばかりをはなったら、本来そんなに赤くないものまで赤く染まって見えてしまいます。人間には自ら発光する性質はないと思いますが、「笑顔」を「光」に例えるなら、そんな器用な演出や「偽装」も出来てしまうかもしれません。

自然な笑顔は、自然な姿を照らします。

それだけのことが言いたかっただけなのです。