あなたのなかに、ぼくはいますか?

どんなことを語るにしても、語りかける相手が理解してくれているか、ついてきてくれているかを察しつつ、それ次第で手を変え態度を変え、自分自身を変化させることが重要なのではないかと、最近思っているのです。


僕が音楽をやるとき(曲をつくるとき、歌を聴かせるとき)、僕はいつも「自分の中の聴き手」を納得させているか、満足させているか、興味を惹いているかといったことを気にかけて大事にしているつもりです。そうした『「自分(青沼)の中の聴き手」に近い「聴き手」を持っている他の誰か』に僕の音楽が届いたときは、その人にもきっと納得したり満足したり興味を示してもらえたりするのではないか、とも考えています。


僕は、特定のクライアントのニーズや要望や注文にしたがって作曲や歌唱をおこなうことを自分の音楽活動の中心にしているわけではありません。そうした姿勢はときに、自分はなんだかひどくあてずっぽうなことをおこなっているような気にさせることがあります。「自分の中の聴き手」さえも見失ったら、その音楽は「宙を漂うだけの空気振動」になってしまうのかもしれません。


「対価を支払うから、わたしの要望にこたえる形で音楽をやってくれ」という願い出が向こうからやってくるほどに優秀な音楽家でもなんでもない僕です。そのことが余計に、僕を「自分の中の聴き手」に向かわせる循環を引き起こしているようにも思えます。


ここで大事なのは、「自分の中の聴き手」をちゃんと狙いすましたり、常時、「自分の中の聴き手の耳を肥やすこと」への努力を厭わないことなのかもしれません。どんなに間違っても、「自分の中の聴き手」を軽んじるようなことはあってはならないと。「あんたにはこんな程度のもので十分でしょ」なんて姿勢で音楽をはなつような時が来たとしたら、そのときは音楽表現家としての僕(青沼)が死ぬときです。死んでいることにも気づいておらず、ゾンビ状態で徘徊を続けているようなことがあったらば、どうか教えてくださればと思います。それはきっと、あなたにしかできないことだから。