大人の学齢期

いまがいちばん、勉強しているんじゃないか。そんなことを思います。もちろん、学校に通っていたときにしてきた「勉強」もわずかながらにあるのですが、いまこの瞬間にもしている勉強にくらべたら、それは小さなものだったと思うのです。

自分はどこを目指しているのか。その着地点を、澄んだ視界の先に見据えているわけではありません。だけれども、自分は何かにしたがって、知りたい気持ちを原動力に、手を、目を、頭を、耳を、あらゆるセンサーを鋭敏にして生きているように思うのです。その目指す先がなんなのか、自分や他人に説明して納得させる力が、いまの僕にはありません。だから今日も動いているし、勉強しているのかもしれません。

「勉め」を「強いる」なんて、なんて人間的な行動なんだろうと思います。本当にその行為の必要性を肌で理解している者にしか、勉強なんてできやしない。だから、一部の素直な学齢期の人たちは、学校の「勉強」をそっちのけにして、自分たちの「いい勉強」をすすんでやり始め、親や教師にいらぬ心配をされたりするのかもしれません。「肌」でする勉強は、大人になっても残ることでしょう。

20年くらい前に特に僕が好きだったお勉強は、「釣り」です。父親に車を運転してもらって、いろんな湖沼にたびたび連れて行ってもらいました。僕がお勉強にいそしんでいる間、父もまたお勉強にいそしんでいました。それは主に、「水彩画」でした。僕が竿を振って釣り糸を張っているとき、父も好きなところへ行っては、筆先をスケッチブックに触れさせたり離したりしていました。行動をともにしているようで、個別に好きなお勉強をやっている。お勉強部屋というのは広いのです。山も川も湖も、どこでもお勉強部屋になります。壁なんかなくていいのです。

最近僕が好きなお勉強は、本でしょうか。釣り竿より、なんかちょっと、お勉強っぽいでしょう。自分にとっては、釣り竿も本もなんら変わらないのですけれどね、ある意味。いろんな本や漫画を読むことがおもしろいのです。お勉強部屋には、壁があったっていいのです。雨・風、しのげます。紙は風雨に弱いので、今はその方がいいのです。インドア派になったものだなと思います。

今でもよく、夢の中で釣り竿を振っています。そこでよく、とてつもなくいい魚や、ありきたりな魚や、魚かとおもいきや魚じゃない何かをよく釣り上げています。だいたい何かしらの釣果があるので、現実にあったら行かない手はない好フィールドなのですけれど、残念ながら夢の中でさえ一度行った場所には2度とお目にかかれないことがほとんどです。

夢の中で本を読んでいる、ということはあまりないようです。やはり自分の手足を使って、「肌」でするお勉強の方が無意識下にまで深くすり込まれるように思います。(本だって、手指を使って支えているわけですが)本は、そうした体験への誘いになります。やってみたいお勉強を広げてくれるのです。だから、本を読んでいるだけじゃ、夢もろくに見られません。

手足を使って、肌で覚える。

いまが一番、勉強しているお年頃なのです。