リュックの中味

音楽は酔える。酒も、酔える。文学だとか美術も、たぶん酔えるものだと思う。

人は、酔えるものを繰り返す。適度なら、やっている人間は気持ちが良いし、それ以外の人間も、眺めているぶんには微笑ましい、くらいの気持ちでいられるかもしれない。

これがちょっと度を越すと、やっている人間の快楽はいつしか不快に変わり、健康にも悪影響を及ぼし始め、場合によってはその人生に支障を来し始めるかもしれない。周りの人間も、直接損害をこうむったり手をわずらわせたりして、たいそう迷惑だろう。

気持ちのよいものは、やみつきになってしまうことがある。すると、それを繰り返さざるをえなくなる。それが、良い習慣だったらいいだろう。悪いことだとしたら、一時的に誰かの手を借りてでも早急にやめなければならないかもしれない。そしてそれらは、良いとも悪いとも言い切れないようなことがほとんどだったりする。誰も止めないから、自分がやめない限りいつまででも繰り返すことができるだろう。そんなグレーな習慣を詰め込んだ頭でっかちなリュックを背負って、行き当たりばったりな山登りを続けているような人を僕は知っている。どっちが頂上なのかをきちんと見据えて歩かないことには、登頂した者だけが味わえる景色にありつくのは難しい。なんでもかんでもグーグルが教えてくれるのは、電波が入るときだけだ。自分が自分のグーグル先生になるべきなのかもしれない。

どんなものごとにも良い面と悪い面の両方を見出すことが出来るのは当然だ。そのときそのときで、自分が見過ごしている視点で観察した「良い面・悪い面」がいつも隠れている。頭でっかちになったリュックの中身は、いかにそうした「見過ごしがちな視点」に気付くことに役立つ道具で占められているか、という基準に沿って取捨選択することが、まずひとつ、道の半ばで力尽きないためにできる賢明なおこないなのかもしれない。

まあ、その「道」をゆくこと自体が楽しいんですけどね。…とかいう奴のことは、もう知らん。(…ん、僕か?)