The Garden 〜ぼくらの庭〜

いまの自分がおもしろくないとしたら、その原因は過去の自分にある。逆にいまの自分がおもしろいんだとしたら、その原因もやっぱり過去の自分にある。

いまの自分のために、過去の自分がしてくれたことってなんだろう?ありすぎて戸惑ってしまう。つまりは全部が全部、過去のおこないの賜物なのだ。それが服を着て歩いているようなものである。『こんにちは、ボクです!』

飽きもせず、ずっと同じ仕事が続けられてしまいそうで、おそろしい。じゃあ5年先も今の職場にいられるかといざ考えてみると、それもよくわからない。同じ場所にいたって、その場所自体も変化しているだろう。自分の予測を超えた影響によって、想像も及ばないような光景に変貌しているかもしれない。想像の及ぶ範囲で予測を立てることに対しては、努力をおこたってはいけないとも思う。

ところで、未来のために何か種を蒔いたのならば、それが芽吹いて育ち、花開くときまで自分もそこにいなけりゃ、その様子に立ち合うことはできない。というか、自分が蒔いた種は、自分がそこに居続けないことには、成長をやめてしまうだろう。仮にそうじゃないとしたら、その「種」は誰かに引き継がれている。人の出入りの多い業界ではそうした「種」のやりとりは日常的なことかもしれない。「種」のやりとりならまだよくて、「尻ぬぐい」だとか、濁された水を澄んだ状態に戻すことを残った者が課せられることもある。汚した尻や濁った水の顚末を、その原因をつくった本人が観察しきらないことには、その人はまた似たようなことを繰り返すかもしれない。誰かと一緒にでもいいから、自分の蒔いた種はどこまでも自分で見守り続けるのがいいのだろう。むしろ、この「誰かと一緒に」というのが重要で、ひょっとしたらいまの僕に1番足りてないものかもしれない、とさえ思う。

同じ場所に居続けることを無理に「飽きる」必要はない。重ね重ねになるけれど、その場所だって変化するからだ。問題は「場所」にあるわけじゃない。(「場」の性質は重要だろう。)どんな自分に仕上がっているかに相応して、僕やあなたはいまこの瞬間も、「種」をこぼしつづけている。それを見つけて拾いあげ、「コレはココに」といったように意図をもって配置し、手入れをして、見守っていく。出来上がった「花壇」や「庭」を、ひとりで楽しむのもいいだろう。その過程のどこからだって、誰かと一緒にやれば、もっといい。