逃げおくれた鯉のぼり

身のまわりの環境に、ふと、劇的な変化が欲しくなる。いろいろあったようでなかったかもしれない5月も、終わろうとしている。

どこか新しい環境に自分を移したい衝動を感じながらも、一方で、「この場所」を劇的に変えられないのであれば、どこに行っても同じである…という風にも思う。結局、どこに行っても場所そのものが重要なのではない…というのが、今のところの僕が信じていることでもある。

やさしさは、自分から差し出せる人のみが受け取ることができる。…のかもしれない。そんなやさしさの応酬を傍から見ながら、僕は嫉妬のようなものが心を焼きつける音を感じる。…チリ、チリリ…本当にそういう音が聴こえるわけじゃない。感じているというのも嘘かもしれない。ふとそんなような気にさせる効果が、5月の終わりにはあるのだろう。自分をとりまく流れの存在を、その力の大きさを感じる。

家の近くの陸橋の上から、電車の往来をよく眺めている。線路沿いに立ったマンションの最上階には、5月が終わろうとしているこの時期になっても、鯉のぼりを仕舞わないまま天に向かってかざし付けている部屋がある。どんな人が住んでいるのだろう。鯉のぼりと電車を見るのが楽しみな息子を連れてきては、だいたい似たような会話をもう100万回繰り返したような気分でいるが、1日2回その橋の上に通ったとしてもその回数に達するにはこの命では足りないだろう。そうしているうちに、あのお宅の鯉のぼりは仕舞われてしまうかもしれない。それより先に問題になることの方が多いだろうけど。

雨が増えてきた。…いや、昨日が雨だったというだけだ。それだけで、そんな根拠のない実感がもたらされるなんて、やっぱり5月の終わりはどうかしている。いや、正確にはどうかしているのは僕の方かもしれないが、どうかしている奴が自分がどうかしているかどうかを悟るのはなかなか難儀なことである。いっそのこと、誰かに「お前はどうかしているよ」とでも言ってもらった方が、その点における難儀はやさしくおさまるのかもしれない。それ以外の点における難儀は潰えたものじゃないけれど。

今日も、明日も、雨だろか。だったらなんだというのだろう。32年間の人生で、さんざん雨に降られてきたじゃないか。今に始まったことじゃない。傘なんか蟻にでもくれてやる。蟻が要らないと言うならば、そのまま傘立てにでもくわえさせておくしかない。濡れてでも、ペダルを回してお決まりの場所に行くのだ。今日のところはそうしておこう。また明日、自分がどうかしているかどうか決めればいい。