ピザピザピザピザピザピザピザピザピザピザ

いかに僕らが、拾いたいものを拾っているかということを思います。身のまわりに存在しているものをフェアに拾うなんてことはないのです。


厳密には入力はされているのでしょうけれど、その信号をそのまま受け流したり、あるいは独自の機構でカットしたりフィルターをかけたりして、「認知」の表層にあがるものというのはごくわずかです。その「機構」こそが、個々の性格とかクセ、すなわち個性みたいなものなのかもしれません。


「(前に)言ったじゃないの」

「えぇ、そうだっけ?」


みたいなことが、日常的に起こりうる。このことを意図的に利用した遊びが、「なぞなぞ」でしょうか。


「『ピザ』って10回言ってみて」

「ピザピザピザピザピザピザピザピザピザピザ」

「(自分のヒジを指差して)じゃあここは?」

「ヒザ!」

「ブ~。ヒジでした」


なんていう遊びを仕掛けられたことがありますし、自分もやったりやられたりしたことがある、という人は多いのではないでしょうか。「認知の表層に上がるもの」を意図的に誘導すると、遊びになります。


僕はミステリー小説をたまに読むのですが、これに欠かせないのが「トリック」でしょう。だいたいどの作品にも、読者の「認知の表層」の裏をつくような仕掛けがなされています。「なぞなぞ遊び」でもおこなわれているような仕掛けを、文章に次ぐ文章で盛り立てて具現化したものがミステリー小説だともいえそうです。次々新しいものが出る中でその「仕掛け」もユニークになっているのか、たまに最後まで読んでもどこが「仕掛け」だったのかわからない、なんてこともあります。そういうときは、ちょっと悔しいようなもやっとした気持ちにならないこともないのですが、小説の場合は文章に次ぐ文章で盛り立てられた「肉」のようなものなので、「仕掛け」が味わい切れていなくてもそれはそれで満足だったりします。きっと、食べにくくて剥ぎ取り切れていない部分に隠れている「仕掛け」があるのでしょう。


何か「仕掛け」があるように思わせておいて、実はなんの「仕掛け」もないというのが常套手段ともいえそうです。つまり「フェイク」をかけておいて、相手の意識を誘導するのです。先ほどのピザの例でも、「ピザ」という言葉を10回言うという、ちょっと冗長で馬鹿馬鹿しいようなトンネルをくぐり抜けさせることで、誤認しやすい状況をつくっています。いえ、厳密には「誤認」ではなく「誤発」でしょうか。指さされた場所を本当に「ヒザ」だと思って「ヒザ!」という声をあげる人はいないでしょう。きっとひっかかるどの人も、そこが「ヒジである」とわかっていながら「ヒザ」という言葉を誤発しているはずです。


そう考えると、ミステリー小説における「意図的な誘導」の結果としての「誤認」と、先ほどの「ことば遊び」やなぞなぞ遊びにおける「誤発」は、ほとんど同等のものととらえることもできそうです。「『誤った解釈』の発現」、それすなわち「誤発」であると。ミステリー小説を読みながら「わかった!こいつが犯人だ!」とか、あるいは「ヒザ!」とか「ピザ!」とか声を発する人はあまりいないでしょうから、外から見て「誤った解釈がその人の中に発現しているかどうか」はなかなかわかりませんが、このことと「ことば遊び」における「ヒザ発言(発現)」は、とても似通ったもののように思えます。


こういった楽しい「遊び」を自分で考えられる人になりたいですね。小説家って、楽しいんでしょうか?