連れられてるのは、僕の方?

犬を飼っている人が、裕福そうに見えることがあります。そういう人の傍にいる犬は、服を着ていたり、そうでなかったりします。特別裕福そうには見えないけれど、犬と一緒にはきはきと歩いていて、健康そうに見える人も多いです。

誰かの面倒をみるとなると、自分のことに手を焼く時間は少なくなるのかもしれません。それだけ、面倒をみる対象がいなかったときと比べて、自分のために使う時間を差し出さなければなりません。

うちに犬はいませんが、息子(2歳)がいます。彼は「きぶんてんかん」という名のついた「散歩」がお好きなようで、朝晩に1度ずつ、1日計2回ほど「きぶんてんかん」をねだってきます。

「きぶんてんかん」が普通の散歩と違うのは、息子が靴を履かずに、僕が肩車や抱っこで彼を連れて出かけるところにあります。まるで息子が僕を散歩させているみたいですね。ふたりで月や星や雲、車、自転車、草木など、目に入るものをひとつひとつ拾って口に出しながら、最寄りの線路まで電車を見に行きます。

だれか、面倒をみる対象があると自分の時間を差し出さざるをえなくなる…のも事実かもしれませんが、「差し出す」というよりは「共有する」と言い表したほうが適切かもしれません。その対象と過ごすことによって、時間が消えてなくなるわけではないのですから。「共有する」時間が増えるということは、自分だけのものではない時間が増えるということになります。そうなると、「自分だけの時間」の希少さが増すことになるでしょう。「面倒をみる対象」を持つことには、そういった効果があることに気付きます。

「大変だ」「忙しい」「自分の時間がない」なんてアピールすることは、なんと恥ずかしいことか。自分にマネジメント能力がないことを露呈するようなものです。そのことをおかしんで「笑える」のであれば、それも幸せのひとつなのでしょうけれど。僕は、自分がおかしくて仕方がありません。