「専門性」と「しろうと性」

しろうとと専門家の境目があいまいになった。いや、そもそも、自然と「あいまいになるもの」なのかもしれない。多くの人が「あるもの」に取り組むようになると、自然とそのことに関する情報を共有するネットワークが築かれる。(インターネットが登場して、その傾向はより増したに違いない。)つまりは、そのことに関する専門性の高い情報がより多くの人に共有されるようになり、結果として「しろうと」と専門家の境目はあいまいになる、と、まぁこういうわけである。

そうなると、人々がみる「専門性の高さ」というのは、「相対値」を基準に判断されるのかもしれない。絶対値を基準に判断したら、多くの人がひと昔前の「情報未共有時代」だったら立派な専門家であっただろうレベルに達している可能性がある。そうなると専門家は、「しろうと」のレベルが上がれば上がるほど、より「相対値を基準に判断したときでもじゅうぶんに保たれる水準の専門性の高さ」を追究し続けなければならなくなる。発展や成長が無限に続くものであれば問題ないが、やがては苦しくなるだろう。その意味で、専門家にとって苦しい時代といえるかもしれない。

そんなことから、いかにも今は「しろうとの時代」とでもいえそうだ。古くは、たとえばエレクトリックギターのブームから、音楽の非専門家:しろうとだった人たちの中から、人気者が生まれた。これがインターネットが登場して、(これももうすでにひと昔前のできごとといえるけど)だれもが文章や言葉、その他ネットに載せることのできるあらゆる媒体を介した表現によって、やはり「しろうと」たちから人気者が生まれていき、そのことはなお今も続いている。

そんなことから、僕はおかしなことを考えはじめる。【「しろうと性」を、いかに追究してやろうか。】ということだ。そう、プロの「しろうと」である。もはや言葉がおかしいかもしれない。貧乏の金持ち、やせっぽっちの太っちょ、巨人の小人(野球選手ではない)…といったような表現にも共通点を見出せる。それはまぁ置いておいて、専門家が専門性を究めることがどんどん苦しくなるのだとしたら、いかにその逆をいくかということがこの先有効になってくるんじゃなかろうか。安直な発想かもしれないが、これまでのことを思うと馬鹿にもできない。「専門家」のものだったものを「しろうと」に開く(拓く)ことで、新たな潮流が生まれるからだ。いかに「しろうと」として、その最初の「開拓者」になるかということが、【「プロのしろうと」はありえるか】という問いに対する追究になるんじゃないかと思う。

ところで僕は最近、「アロマ」に関心を持っている。「匂い」の共有システムは、まだまだインターネット上に整っているとは言い難い。匂いのもととなるものを通販で注文すればすぐに届くかもしれないが、手持ちのコンピュータが「匂いだす」なんてことはない。専門的な機関においてそういったことが研究されているかもしれないが、どれくらいの進捗状況なのか「しろうと」の僕は知らない。そもそも、「コンピュータが匂いだせばいいのに」なんてことを思わない僕は、発想や着眼点の鋭さにおいても「しろうとの中のしろうと」なのかもしれない。たぶん、「どうしてこのコンピュータは匂い出さないのか?」というような、僕のような「しろうと」が思いもしないような疑問を抱く人こそが、真の開拓者となる素養を備えた人なのかもしれない。そういう人は、「プロのしろうと」なんかじゃなく、きっと単純に「未来のプロ」だ。そう思うとやはり「プロ」と「しろうと」の間に横たわる溝は、深い。