人生には終わりがない

ここからここまでが、この作品。
というように、フィクションには始まりと終わりがあります。その一定範囲の中で、情報量や熱量の緩急を意図的にデザインすることができます。もちろん、終わりを決めずに作っていたらどんどん後ろに延びていってしまったり、始まりの前にも「始まりの始まり」みたいな部分を挿入していった結果、初期の構想よりも長編になるなんてこともあるかと思います。

ところで、人生には終わりがありません。
というのは、自分の人生の終わりを決めていて、「〇〇歳になったら自殺してでも自分の人生を終わりにする」なんて人を僕は知りません。理解されがたいことを懸念して、誰にも言わないだけかもしれませんが。病気や老衰で自分の命が収束(あえて「終息」ではなく)していくのを生々しく感じている人だったら、その「収束」がいつ頃かということが比較的高い精度でわかる、という可能性も否定はできませんけれど………話が逸れかけましたが、多くの人の人生の終わりは、精確には決まっていません。もちろん、だいたい90年も生きたらいい方だ、くらいのことはわかるかもしれませんが、その終わりが明日なのか明後日なのか、昼なのか夜なのかといったことまではわからないことがほとんどでしょう。つまり、人生なんてのは、意図を持ってデザインしきれるものでもないし、そうする必要もないのではないかと、思ったりするわけです。

もちろん、〇〇歳くらいまでにはこれくらいのことはやっておこう、こういう状況になっているようにしよう、などと行動の方針を持つことはできます。仕事だったら、年単位だとか、一定の範囲の中で必ずこなさなければならない(こなすべき)質量のはたらきがあるかもしれません。これが、仕事以外のことも含めた自分の人生全体だと、なかなかうまくいかなかったりします。終わりだとか「区切り」をもうけて、「一定の範囲」を明らかにしなければならない、という確固たる理由がなかなかないからです。「〇〇歳くらいまでには結婚するつもりだったのに」とか、「いついつ頃までには子どもがいて…」とか、「やりたいことで成功して有名になっていて…」といったことが、例えば30歳までに実現すれば良くて、31歳ではダメだという理由はない場合がほとんどでしょう。そうした「延伸」の先に、かつて思い描いたことと、自分の現状との差異を嘆く声が聞こえてきそうです。(僕の中から?)そんな「嘆き」のようなものをテーマにした漫画(フィクション)を買い漁って、夢中になって読んだ記憶があるようなないような…

「始まり」と「終わり」を持った、「一定範囲」の積み重なりで、人生はできている…。といったところでしょうか。たとえば、「一年間」を「一定範囲」としてみれば、65歳の人は65回分の「積み重なり」を持っているということになります。だからなんなんでしょうね、自分でもよくわかりませんが…。自分のこと、それも特に私的なことになると、「デザイン」だとか「計画性」だとかそんなようなまどろっこしい一切のものごとはどうでもよくなり、いびつで不恰好な様相を呈してしまう…そんなことを嘆きたかったのだと思います。