しろうとの心

ぼくは、一生、「しろうと」でいい。
そんなことを最近思うようになりました。

「何か一芸に秀でること」が美徳とされる風潮がありませんか?「器用貧乏」なんて表現がありますが、何か「ひとつの道」を究めないことには大成しない、という価値観が優位的であるように感じます。誰しもに「必ずやその道でプロになれるような得意なことがあるはず」という価値観を、押し付けられがちな気がするのです。

何かひとつの分野を目指すことは、もちろん良いと思います。ただ、ひとつの分野を目指したがために、他の分野のことに対して盲目的になってしまっては、目指す方向を絞った意味がありません。きっと、まわり(ほかの分野)がよく見えているからこそ、特定の方向を認識して突き進むことができるのです。まわりが見えていなかったら、方向を見失い、気づかないうちに進んだ道を戻っていたなんてこともあるでしょう。

ぼくが「一生、しろうとでいい」と思ったわけを分解してつきつめると、きっとそういうことが背景にあると思うのです。興味の方向性を限定することは、偏見につながります。「知ったふり」をしないこと。「知らない」を楽しむこと。すなわちそれは、「しろうとの心」を持ち続けることなんじゃないかと。

未知のものは、おもしろい。というか、「楽しもう」としなくたって、おもしろいから突き詰めてしまうのが「順番」だと思うのです。その結果として、他者から特技として見なされるスキルが身についたり、特定の分野の専門家と呼ばれるようになったりするのではないでしょうか。

そう考えると、そもそも「しろうと」「プロ」「専門家」といったものの間に線引きをする行為自体に、ちょっとした落とし穴があるような気がします。もちろん、言葉の意味や定義、「区別」や「分類」を考えることはとても有意義なことです。ただ、誰かによって導き出されたそれらの「解」にあやかって、自分で「感じ」たり「考え」たりしなくなることが、落とし穴なのだと思います。

じぶんで感じ、じぶんで考え、じぶんでやる。
それらの根ざすところにあるものを、ひとまず僕は「しろうとの心」と呼んでみたい。