「普通」の範囲〜日常的に、非常事態〜

標(しるべ、目安)に準ずると書いて、「標準」である。誰かが何かについて、「コレくらいが目安でしょう」というのを決める。ソレを基準にして、モノや事象を観察したり比べたりするのに、私達は役立てている。それが、「標準」である。


似ている言葉に「普通」がある。普遍的に通ると書いて、「普通」である。辞書に載っているこの単語の定義が「普遍的に通ること」かどうかは知らないが、たぶん「普通」として語られることはだいたい「普遍的に通る」だろう。これは僕の私見である。


「標準」は、誰かが然るべき根拠に基づいて、定めている。確認したわけじゃないが、きっとそうだ。一方、「普通」はそれぞれに根拠はあるかもしれないが、定められていない。一人ひとりが各々の「普通」を持ち歩いている。すごく飛び出ていたり、すごく引っ込んでいたりすることは、たぶんその人にとって「普通」じゃないだろう。その人が「普遍的に通るだろうな」と思えることが、おおむねその人にとっての「普通」だと言ってよい。


「普通」の範囲は人それぞれである。その範囲が狭い人は、大変だ。日々暮らしていて、異常事態の連続だろう。一方、「普通」の範囲が広い人は、何事にも動じない。毎日が「普通」すぎて、「人生はだいたい普通である」くらいに思っているかもしれない。


自分の「普通」を客観的に見つめられたら、と思う。果たして広いのか、狭いのか。僕は、「普遍的に通る」ことなんて、実はそんなにないのではないかと疑っている。いや、もう少し細かいことを言うと、多くの人が「ああ、そうだね、ソレ、普遍的に通るだろうね(私は普通だと思わないけど)」ということは多いんじゃないかと思っている。(カッコの中が重要である)それってひょっとしたら、僕の持ち歩いている「普通」の範囲は意外と狭い、ということを示しているのかもしれない。自分の「普通」の範囲が広ければ、そんなことは思わないんじゃないだろうか?「私が『普通』って思うことは、みんなにとっても『普通』でしょ」と、疑いもなく思えるような人の持ち歩く「普通」は、実際のところ、範囲が広いのかもしれない。そんなことを思う。


つまり、僕は結構、日常的に非常事態が多い方だ、ということになる。自分でつづっていて、非常におかしな言葉づかいである。「日常的に非常事態が多い」ってもう、言葉づかいが非常事態ですよね。こうして崩落と再構築を繰り返し、「言葉」は進化していくのだろう。という、バスケットボールだったらファウルをとられかねない強引さでこの文章を締めくくる。(締まってない?)