ほんとうの諦観

「泣いてもどうにもならないことは、諦めよう」

そう口ずさみながら、僕は泣いて嫌がる息子のオムツを替えていた。その場でつくった、旋律のあいまいな鼻歌である。息子に歌いながら、僕は自分自身に語りかけていたのかもしれない。どんなに嫌がられても泣かれても、僕は息子のオムツを替えるのをここで中断するわけにはいかない。僕はオムツ替えを中途半端な状態でやめにするということを、泣いて諦めた。(実際には泣いていない)

何かを諦めるということは、諦めなくてもよいことをより豊かにすることだ。苦労してもどうにもならないことが、世の中には、ある。悲しんでも、嘆いても、動くのは自分の感情ばかりで、他の何者も動かさない。そんなことが、世の中には、ある。

感情を動かすくらいなら、体を動かしてほしい。そんなことを言ってやりたくなるような時もある。感情に支配されている人を見たときだ。そんな時、なるべく僕は、自分の体を動かすようにしている。ことばをいくらかけても、相手の感情を燃え上がらせる油にしかならないからだ。感情は燃え上がりやすいのだ。

諦める前に、やるべきことがある。そういう場合も多いだろう。諦めるのに足りるほど、やりきっていない。なのにそこで、やめてしまう。そんなケースもあるように思う。諦めるというのは、その前の段階で「手を尽くす」という前提が必要なのだ。だから、本当の意味で「諦める」という境地に至るのは、尊いことだと僕には思える。「諦めた人」にしか語れないことや、彼らの表現に出合うことで、感動を覚えることもある。諦めるに足るほどに「やった」経緯、その事実。それらは、どんな作り話よりも重みを持って、僕らにのしかかる。たぶんそれは、諦めた本人にとっても気持ちの良いことだろうと思うし、その重みは受け取る僕らにとっての「揺るがなさ」でもあるだろう。

諦めることなく、長続きするものごともある。そういうものは、いくらやっても「手を尽くせない」のだろう。やってもやってもやることが尽きないから、終わりがない。そういうものに、生きる動機を見出すこともある。生きることそれ自体は、幸でも不幸でもない。ただ、生きている者のみが感じるものである。「生」に付随するものによって、僕らは「生」を定義する。