朝日の成分

何かを読んで、何かを書く。


ということを日課にして、たぶんそろそろ1年が経とうとしています。誰に強いられたわけでもないけれど、そのようにしています。


僕はこれを、朝起きて一番に書いています。夜は眠くて、まともに文章が書けません。「恥ずかしい文章」どころか、そもそも文を書くことができないのです。僕はこの文をコンピュータで書いていますが、もしも手書きだったなら、必ずや居眠りをしながら書いたときにのみ現れる、誰もが一度や二度は召喚した経験があるであろう、あのミミズか糸くずみたいな筆圧の弱~い線で原稿用紙が飾り付けられることと思います。そしてたぶん、朝に書いているこの文章も、仮に夜に原稿を書くことができたとして、その時に生み出される恥ずかしい文章と同じくらい恥ずかしい仕上がりだと思うので、その点での遜色はさほどありません。ならば書かなくても良いのではとも思いますか、どういうわけか書き続けているのです。たかだか1年程度ですけれど。


書き続けることで、何かをどうにかしたいという具体的な目標を設定して始めたわけではありません。むしろ、この先に何があるのか、これをやり続けたらどうなるのかということが知りたくて始めたのだと思います。幸い、何かを読んで、何かを書くという行為は、至極単純かつ、それなりに楽しいもののように思います。卓球のラリーが長く続くと、どこまで続くんだろうと、その疑問自体に関心が湧いてしまうような現象に似ています。ちなみに、実際の僕は卓球がヘタだし、そんなにラリーが続いたこともないですから、出鱈目を書いていることになるでしょう。でも、もしかしたらすごく低い精度で、当たっているかもしれません。


1年間続けてみて思うことを、箇条書きしてみます。


・習慣化すれば、ものごとは無理なく続く(毎日ごはんを食べることが、これといって苦痛でないように)

・「文章(ことば)」という「道具」の扱いに慣れた(あくまで「達者」になったとはいえず、「慣れた」だけ)

・「ことば」という道具は、考えを外に出すときだけでなく、自分の中に入れるときにも役に立つ(もちろん、「ことば」に慣れることによって「ことば」に頼りがちになり、「ことば」を介さない「出し入れ」を妨げているおそれはある)

・早起きできるようになった

・夜更かしができなくなった

・コンピュータのタイピングが速くなった(わずかではあるが)



僕には、もうすぐ(明日)2歳になる息子がいます。ひとりになって何かに集中する、という行為を家の中にいながら実現する一番手っ取り早い方法が、「早起き」なのです。もちろんみんなが寝静まるのを待って、「夜更かしする」でも良いのでしょうけれど、これが生理的に出来なくなってしまいました。原因が「早起き」のサイクルを始めたせいなのか、加齢のせいなのかはわかりません。昔は夜中の3時とか5時とかまで起きて何かやっていた時期もありましたが、そうした時期の自分が、今では不思議でなりません。結婚もしていなかったし、子どももいなかったし、主な収入源としている職業も違ったし、自分の身のまわりが一変していることがわかります。それらを差し引くことができたなら、「加齢」による純粋な影響がどれほどのものなのかがわかるのになぁなんて、願ってもかなわないことを想像しては捨てて、を繰り返しています。


あ、ほら。


また、太陽が昇ってきましたよ。


「日の出の時刻の移ろい」を目の当たりにできるのは、早起きならではのメリットです。


いや、メリットかどうかもわかりませんけれど。


何かありがた~い栄養素的なものが、含まれていそうな気がしやしませんか。