加齢バイアス?

「かわいい」は、泣けるし、笑えるし、儚くてものがなしい。


今の僕の「かわいい」存在は、息子でしょうか。もうすぐ2歳になります。複数の単語を用いた発語を披露して、驚かせたり笑わせたりしてくれます。このかわいさも、ずっと続くわけじゃない。今だけのかわいさなんだろうなぁと思うと、せつなくて妙な気持ちになります。もちろん、彼が中学生になるとか、大人になるとかしても、そのときだけの「かわいさ」があるんだろうなぁとは思うのですが。


「時間を経るほどに良くなる」自分の人生も、そうなるのが望ましいところです。そうなるように努めて、行動しているつもりです。体は老いていくし、若い容姿は、若いときだけのもの。若いときなりの体力の質感、みたいなものがあるような気がします。そうしたものは、歳を重ねるとともに、徐々に失われていきます。それでよいのです。今は今なりの質感の体力があるし、美しさ、強さがある。そう思うのです。


生きている限り、歳をとることだけはやめられません。だから、そのことを受け入れるための論理なんじゃないかというのが、いつも気になるところです。抗えないことを受け入れるために、価値観に「加齢バイアス」みたいなものが、はたらいているんじゃないかと。


いろんな観点を設けて比較すれば、若いときと歳をとったときの間には、無数の優劣を見出せることと思います。そうやって見出したものを参考にして、今を生きるのは、とても有意義なことだと思います。取り戻せないことを嘆いて悲しむために、今と昔の違いを自覚するのではないはずです。ただ、一時的に哀しんだり、嘆いたり、落ち込んだりすることは、より良く生きるために必要なことのようにも思えます。そうした強い刺激になるような情動、感情の動きがあるからこそ、僕らは人間らしく生きていかれるんじゃないかと思うのです。


なんだ、そうか。


「老い」も「衰え」も、感情に対する一時的な刺激、そして、「生」をあきらめないための動機をくれるために、存在しているんじゃないか。


そんな風に考えられるようになったのは、少なくとも自分も、10年、20年前よりは歳をとったからなんだろうなぁと、しみじみ思います。