音楽をやっている「詩人」です。

僕は、音楽をやります。へたなので、練習します。毎日やります。たとえば30分のステージが近々あるとしたら、少なくともそこで披露するぶんだけの曲数は、本番まで毎日やります。ちなみに、その本番が過ぎても、何かしら毎日やっています。次の本番が、また控えていたりします。

おもに歌ったりしています。1人で演奏することが多いので、自分で伴奏をします。弾き語りです。間奏にハーモニカでメロディを入れたりもします。ハーモニカホルダーというハーモニカを支える道具があるので、伴奏しながら1人で演奏できます。結構、楽しいです。


僕は、中学にあがったときにギターを始めました。学校でギターをやる友達をみつけて、デュオを組んでいました。彼は歌える人だったので、僕はハーモニーパートを担当することが多かったです。ふたりでギターを持って、地域のおまつりに出たり、学校のお楽しみ会みたいな機会で演奏したりしていました。

僕は、自分の声がきらいでした。くぐもっていて、響かない声でした。それでも、歌おうとするのをやめなかったのはなぜだろうと思います。へたなのがくやしかったのかもしれません。中学でデュオを組んでいた彼は歌えるのに、なんで僕はうまくできないんだろう、といった気持ちがありました。

高校にあがって、軽音楽部にはいりました。(正式には「同好会」で、部ではありませんでした。)入学して早々、知らない先輩に声をかけられたのを覚えています。「おまえ、なんか(楽器)やってるだろう?」ブリーチした真っ白な頭髪で、革ジャンとスキニーパンツをまとい、分厚いラバーソールを履いた人でした。その後、2級上だった彼が卒業するまで、僕たちはバンドを組むこととなりました。

同級生どうしでもバンドを組みました。最初、ボーカリストを含む4人編成バンドでした。僕はギターを弾いていました。1年目の夏頃だったか、ボーカリストが、かけもちしている運動部の方に注力するためにバンドを辞めていきました。僕たちは、スリーピースバンドになりました。ベーシストの彼が歌いながら弾くかたちをとりました。僕はやはりハーモニーパートか、曲によってはメインボーカルのときもありました。やっぱりくぐもったような通らない自分の声が、きらいでした。それでも歌うのをやめようとしなかったのは、なぜだろうと思います。歌える人たちがうらやましかったのかもしれません。でも、どんなにへたであろうと、歌うことは気持ちが良かったように思います。本番を終えて、どんなにへただったとへこんでも、誰かの前に出て歌っている最中には、一瞬のきらめきみたいなものを感じます。その瞬間をなるべく長く感じたいがために、僕は歌うことをやめなかったのかもしれません。

それから、15年くらい経つでしょう。結局今も歌っています。かつてよりは自分の声をだいぶ好きになりました。それでもいまだに、通らないくぐもったへんな声だなぁなんて、思うときもあります。楽譜を見て、初めてのメロディをその場で上手に奏でたりする反射神経もないので、やっぱり練習します。時間をお金にかえて計算したら、完全に大赤字です。僕は音楽で仕事をすることもありますが、仕事のために音楽をやっているわけではないのです。そして最近思うのは、自分はひょっとしたら音楽家ですらないのではないか、ということです。「音楽」というかたちによって、「詩」をやっているだけなのだと。「音楽」に限ったことではありません。どんなことをやっていても、そのものがもつ「かたち」や「秩序」を介して、「詩」をやっているだけなのではないかと思うのです。

何かの「かたち」や「秩序」に夢中になっては、ただの「詩」に立ち返る。そんなことを繰り返している、自分は「詩人」なのだと思います。