「ジャンル」の発明

良い音楽は、ジャンルを越えますね。あるミュージシャンの鳴らす音楽自体が、ひとつの新しいジャンルを打ち立てているような、そんな印象を受けることがあります。

でも、「あの人自身がひとつのジャンルだよね」みたいな言いまわしって、厳密にはおかしいのではないかとも思います。ジャンルという分類づけは、本来線引きできないものに無理矢理線を引くような行為です。「人間」に生まれてみようと思って生まれてくる人はなく、皆、生まれてみたら「人間」だったわけです。かなり強引なたとえかもしれませんが、ただそこに音が鳴っているのであって、それをロックだとか、クラシックだとか、演歌だとか、ポップだとか、便宜的に呼んでいるに過ぎません。

ジャンルづけというものは、仮に「形式」によっておこなわれるものだとしておきましょう。その「形式」とは何かといえば、すごく大雑把で不正確を承知でいえば、たとえばエレキギターなんかを大音量で鳴らすのがロック、楽譜に基づいた演奏をおこなうのがクラシック、というようなことです。

「形式」とは、ひょっとして発明品みたいなものなのかもしれません。独自の論理やものの解釈、それらによって導かれる結論を実現する技術の開発などによって、多くの人たちに影響を与え、その後の時代や時勢が変わっていくようなきっかけとなるもの…そこに、音楽における「ジャンル」という概念を考えるヒントがあるような気がします。「追究した。結果、こうなった」…それがなしている体(てい)に付された記号が、ときに「ロック」であったり、「クラシック」であったりするのじゃないかと。

形式は、つくるものです。そのために、形式に「ならう」ことで学ぶこともあるでしょう。築き上げられたものが大きすぎて、ならっているだけであっという間に過ぎてしまうのが、人生です。それだけ、今の文明が高度なのかもしれません。しかし、「形式」とは、放射状に広がっているもののように思います。一歩踏み出すごとに、未知の領域が途方もなく現れます。どんなにやっても、やり尽くすことはないでしょう。