リアクションの鎖

亡くなった者の気持ちを考える、なんて言い表すことがあるようですが、亡くなってしまったら「気」の「持ち主」はいなくなるわけですから、厳密にはおかしな物言いなのかもしれません。誰かが亡くなったあとに起こることは、すべて生きている者のためなのです。この世を去った故人に「気持ち」があるとしたら、どう思うだろうか?と想像したりすることは、ときに生きている者の判断を助けたり、行動の指針となったりすることは事実です。何者かが生きて、その「生」にピリオドをうった。そのことが周囲に与えた影響を、残された者たちは知る。自分たちがピリオドを打つまでに、どう生きるのか。筆を動かしながら、考える。


自分が生まれるその瞬間までは、何も始まっておらず、自分が死んでしまえば、すべては終わり。「個」の視点からみれば、あくまでそうです。けれど、器を替えて、積み直し、「人間」の血潮は脈々と流れ続けています。「個」が始まって終わる、その前にも後ろにも延々ともとを辿っていけば、他の種族への分岐点に出合います。もとから別々のものだったわけではないのですから。蟻んこに共感せよと言われても困るかもしれません。けれども、おなじこの星の、原始の頃を共にした、仲間であることは確かです。どんなに種族が違っても、命には、なにかある。共感できるものというか、共有のものなのでしょう。


だから、尊重しあえる。お互いの命を、大事にしあえるのです。そのために、時間を、労力を費やして、リアクションしあっている。そんな反応の連鎖です。僕らは行動をさも選択しているかのようだけれど、進化を積み重ねてとても高等な機能を備えるに至ったけれど、行動も思考も感情も、心臓や肺の自律活動もすべて、リアクションの連なりの先にある「今」なんじゃないかと。


窓の外。


公園のみどり。


往来する車のエンジン音、タイヤと道路が擦れる音。


春の終わりを告げる雨。


もうすぐ、僕の息子の誕生日。



5月のことを考える。


これもまた、リアクションなのだろう。