朝のデスクトップ

夜って、1日にあったことがごみごみと、頭の中に散らかっているように思うのです。いろんな雑多なものが散らかった部屋の中に埋もれているようです。僕はそこで、飯を食い、場合によっては少しの酒をのんで、まどろんで眠ってしまいます。


朝起きると、散らかっていた雑多なものが整理されています。勝手に捨てられているものもあったりするけれど、だいたいは見えにくいところにしまわれているだけだったりします。そうした整理と仕分けを受けて、それでも机の上に出たままになっているものがあったときは、なんとなくちょっとだけですが、昨日はいい日だったかも、とか思うのです。


昨日は、地域の人たちが立ち上がって、何から何まで自分たちの手でおもしろくしようとする意気込みの感じられるイベントに行ってきました。「マーケット」と名前に入った、日曜市のようなおまつりでした。会場は、四方を団地と住宅地に囲まれた公園でした。視界を覆うようにそびえる団地は壮観でした。このような環境で人の集まる催しを行う背景には、近隣から理解を得るための運営者たちの努力があったことでしょう。近隣の人たち自身も、このイベントをわがことのように親身に思っているんじゃないかと想像します。


僕は、ここで演奏をしてきました。楽器を持った人が4人も並んだらいっぱいになるような、小さな石段の上のステージでした。音響はないに等しく、拡声装置は電池で動く小さなアンプのみ。僕は最近咳が長引いていて、声も出なくなってしまっていたし、練習も中断していたので、大変不安でした。高くは望まない。生きて出て行くだけでいい。なんなら恥でもなんでもさらして構わない。そう思って、ステージに上がってきました。


不安と諦観の間から漏れ出る一声。


なんだ、これくらいなら出るじゃんか。


これでいい。


こんなもんでいい。


そこから、無心の20分。風も強くて、音響もなく、どこまで声が届いたものかわかりません。拍手と歓声とを、確かに聞きました。終演後に、良かったですと声をかけていただきました。ステージからだいぶ、離れた位置にいた人でした。


意外と、なんとかなるもんだなぁ。


不安の材料になるものなんて、いくらでも転がっています。それらに気付くこと、察知することは大事だと思います。だけど、知っていてもどうにもならないことにとらわれて、絶望するのは意味がない。どうにかできることを見極めて、どうにかするのみである。


風と土埃にさらされながら、どうにかできることをどうにかする人たちが集いに集った、手作りのいいまつりでした。


今朝起きて、机の上に出ていたのは、そんなようなこと。