濡れて、歩く。 〜雨が降っても、傘ささず〜

ペットを飼うと決めたとき、それにともなうことを一挙にまとめて受け入れることになる。毎日世話をするとか、犬だったら散歩に連れて行くとか、病気になったら病院に連れて行くとかである。ペットの飼い主が、彼らの命を担うことになる。なかなか長期間家を留守にしたりできなくなるだろう。そのことが自分にどう影響するか、予想はできても、実際に飼ってみないことにはわからない。飼うということを決めたときに、そういうもろもろと引き換えに、ペットとの生活を得るのである。

命に長期休暇はない。間断なく添い遂げることになる。海外旅行にはなかなか行けないとか嘆く間にも、ペットたちはお腹を減らすし、糞尿をたれる。ペットがおらず、自由気ままに家を空けることのできる生活と、ペットと運命を共にする生活と、どちらが尊いということはない。自分が納得して受け入れることが重要だと思う。あらゆる影響を考えて、覚悟を決めて受け入れた選択であるほど、その選択によって得られるものは大きくなるように思う。実際には得られるものの絶対的な大きさが増えたり減ったりするわけではないけれど、そこにどれだけの価値を見出すかとか、いかに独自の発見をするかとか、本人が代償として差し出したものの大きさを的確にとらえているほど、自分の決定と選択によって得られるものに敏感になれるように思う。先生や親に言われて勉強させられても、覚えないし、残らない。他の何よりも面白いと思って、自ら「やる」ことに関しては、誰に言われなくても覚えるし、自分の身についていく。そのこと自体がまた面白く、よりいっそう、誰に言われなくとも、「やる」だろう。「やらされる」は、不毛である。

気をつけたいのは、本当は自分で考えて納得したのではないものを、そのように思い込んでしまうことである。あくまで、どこまでも自分で頭をひねって考え、納得して決めるのが大事なのだということ。考えるために必要な材料や情報集めも、できることなら自分でした方がいい。そこを他人任せにしてしまうと、選択の結果にともなって何か面白くないことが起きたとき、間違った判断材料となるものを集めてきた奴が悪い、という思考になってしまうからだ。他人に何かを任せる時は、「君が君の正義にしたがって行動した結果であるならば、私はそれをすべて受け入れる」というくらいの覚悟が必要といえる。

そうした「信用」を他者と築くことのハードルは、高すぎやしないだろうか。確かに自分でもそう思う。小さなことから、始めるしかない。これくらいのことなら「ひとのせい」にしないでいられる、ということの積み重ねの先に、大きな信頼関係がそびえている。そこに至るための小さな一歩を、まずは自分から踏み出すことで、関係は始まる。踏み出すのが億劫ならば、一歩を小さくすればいい。極端に言えば、立ち上がらないで済む程度の、手の届く範囲にあるものから動かし始める、でもいい。自分の近くをより良くするためには、立ち上がってでも何かを変える必要があると「納得」するからこそ、人は動けるのだと思う。

ここに空気がなくなったら、食べるものや飲むものがなくなったら、私は枯れるのみです。…というのでは、人間というよりむしろ植物に近い。もちろん、そういう生き方も否定はしないが、自分にも他人にもおすすめしたいとは思えない。ただ、「否定しない」というスタンスによって「否定」を表現してしまうおそれもあるので、たまに植物みたくなってみるのも良い。風に吹かれて、太陽に照らされて、気持ちが良さそうなものである。

雨が降っても、傘さしません。

濡れるのだって、納得して受け入れてみれば、気持ちが良いに違いない。