春めき、ときめき、私めき。

人間なんて、複雑でわかりにくいものだ。何かをわかりやすく伝えようなんてするけれど、言葉にしたら、言葉にしないということを破り捨てることになる。実際には、言葉にするもしないも、ぜーんぶひっくるめて自分である。こんなつまらない文章を書きながら、書かない方の自分も携えている自分がいる。

音楽だったら、音を鳴らすも鳴らさないも全部ひっくるめて音楽である。休符というのがあるし、音が鳴っている瞬間だけで音楽ができているわけではない。ひとつのパフォーマンスのなかで、そういうメリハリがある。そもそも「表現」しなければ、さすがに「音楽」にはならないかと思えば、意外にそうでもないかもしれない。「やらない」も「表現」と解釈しうるからだ。本人に「表現だ」という自覚があるかどうかにはよらない。他人がペタペタと貼り付けるものこそが「解釈」だ。簡単に剥がれ落ちたり、上から重ね貼りをして昔のものが見えにくくなったりする。皮肉なことに、ときに「解釈」で本体を見失うことさえある。

僕にとっての不幸は、「声が出なくなること」かもしれない。もっと致命的な不幸はいろいろとある。けれど、これがいちばん頭にくるのだ。念頭に来やすい、という意味だけれど、実際、声が出なくなると「憤り」みたいなものを感じるという意味で「頭にくる」ともいえる。

最近、謎の咳がずっと続いていて、なんとも調子が悪い。風邪と花粉症を併発してひどいことになっているのだとずっと思い込んでいたのだけれど、もうひと月以上も続いている。ただの風邪ではないことは明らかであり、昨日耳鼻科に行ったらその通りのことを言われた。おまけに、風邪よりやっかいな病気の可能性も告げられたところだ。僕もちょうどそのことに気付きつつあったところだったから、僕もその通りだと思うと、そのまんまのことを言った。その場では副鼻腔炎という診断をもらい、別の呼吸器内科の受診をすすめられた。近々、そうするつもりでいる。

話がそれたが、風邪とか花粉症だとかいえば、それをいわないということを破り捨てることになる。実際にはその両方が自分にあったり、風邪とか花粉症とかでは言い切れないたくさんの複雑なもろもろがうごめいて、なんとなくひとつの「私」のようなものになっている。

へんな風が、ごうごうと吹き散らす。

そんなこの頃。

「春めいた」気にさせて、

明日には吹き飛ばす。

そんな毎日。