「今日」を、もらう。

たとえば災害や事故に遭ったとか、犯罪によって被害を受けたとか、失恋をしたとか、仕事で難題があるとか、友人とモメて不仲になったとか、いろいろやっかいなことがあると思います。身体や心理に、一生残るような深刻な影響をもたらす場合もあるでしょう。


そういったものを語れるほどに、僕にいろいろな経験があるわけでは決してありません。ですが、それらを受け入れたとき、初めて活きた「経験」となるのだろうと思います。きっと、現実から目をそらし、不幸や不遇を嘆いているうちは、起きてしまった現実や事実は、「障害」として立ちはだかるだけなのだろうと。前提となる事実と向き合い、受け入れて初めて、自分を宿した体が、前に進み始めるのだと思います。


たいそう多くのことを僕に教えてくれた、いくつかの恋愛のことを思い出します。つまらない、みみっちいものかもしれないけれど、当時はそれこそ「死ねる」ほどに必死だったのです。今となっては、いつ振り返っても、愛情のいろんな側面をうかがい知ることのできる大切な宝物です。同時に、今でも関わった人たちにかけた迷惑を思うと、昨日のことのように恥ずかしい気持ちになれます。ですが、いずれにしても、今日を笑って生きるための「思い出」であることは確かです。


大切な人を亡くすとか、自分の身体の一部を失うとか、安易に僕の「思い出」と並列するのは憚られるような、受け入れがたい重大な事件にあう人がたくさんいます。それでいて、それらの事実を真正面から受け入れて、生きる力に変えている人がいます。多くの場合、僕は遠くから見ている傍観者でしかありませんが、例えばパラリンピックで活躍する人の記事なんかを読んだとき、そうした人の存在を確かに認めることができます。


なるべく納得して受け入れるために、事実は正しく知りたいし、現実は色メガネをかけることなく、自分の裸眼で見つめたい。


そう思います。


失ったのではない。

生きる力を得たのである。


触れられなくなってしまったものから、僕は「今日」をもらう。